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03_魂響

『星見の間』から戻った蓮と如月を待っていたのは、表層的な平穏を装う朧月市の日常と、水面下で確実に進行する異変の兆候、そして何よりも重くのしかかる「時間」という名の冷酷な現実だった。蓮が『虚』によって『器』として明確に認識されたこと、そして『虚の匣』の封印の劣化が予想以上の速度で進んでいるらしいという事実は、二人の行動に焦燥という名の鞭を打ち始めた。もはや一刻の猶予も許されない。


「師匠、本当に…俺の中に、あの『虚』が入り込む可能性があるんですね…?」


翌朝、古文書修復室の片隅で精神集中の訓練を再開しながら、蓮は改めてその恐怖を口にした。昨夜の『星見の間』での体験は、彼の魂に焼き付いて離れない。あの絶対的な悪意と冷気、精神を根こそぎ奪い去ろうとするおぞましい引力。あれが自分の内側から溢れ出すかもしれないという想像は、訓練に集中しようとする蓮の意識を度々かき乱した。


「可能性、ではない。蓮くん、我々はもはや、『虚』が君を『器』として狙っているという前提で動かねばならん」


如月は、蓮の背後に立ち、その精神状態を注意深く観察しながら厳しくも静かに言った。彼の周りには、昨日持ち帰った防御結界用の鉱石や護符の類が、再び力を蓄えるかのように静かに置かれている。


「だが、恐れに心を支配されるな。恐怖は『虚』にとって最も好ましい餌だ。君の精神を蝕み、境界を弱める。むしろ、その事実を冷徹に認識し、対抗するための意志を燃やすのだ。君の『感応能力』は、単に『虚』を探知するだけのものではない。使い方次第では、『虚』の干渉を弾き返し、あるいは一時的に中和することさえ可能なはずだ。古文書の記述によれば、だが…」


如月は、蓮に新たな訓練を課した。それは、これまでの防御的な精神集中に加え、自身の『感応能力』――彼らが仮に『魂響(こんきょう)』と呼ぶことにした力――を能動的に用い、外界に干渉する試みだった。


まずは、自分の周囲にイメージした『意識の境界』を、単なる受動的な壁ではなく、微弱ながらも反発力を持つエネルギーフィールドとして具現化させる訓練。次に、そのフィールドを特定の方向に収束させ、ごく小さな物体――例えば、机の上に置かれた消しゴムや羽根ペン――に触れずに微かに動かす、あるいはその存在感を希薄化させるような練習。


「『魂響』の本質は、おそらく『存在』そのものへの干渉力だ。『虚』が『無』への引力であるならば、君の力は『在ること』を肯定し、維持し、あるいはその在り方を限定的に操作する力なのかもしれん。まだ確証はない、仮説に過ぎんが…」


如月の言葉を頼りに、蓮は必死に訓練に励んだ。だが、それは想像以上に困難で危険な作業だった。力を込めすぎると、激しい頭痛と共に目の前が真っ白になり、意識を失いかける。逆に力を抑えすぎると、何も起こらない。最適なバランスを見つけ、それを安定して維持するには、途方もない集中力と精神力が要求された。


特に困難だったのは、近くに置かれた『虚の匣』からの絶え間ない干渉だった。匣は、まるで蓮の訓練を嘲笑うかのように、彼の精神が不安定になる瞬間を狙って悪意のこもった囁きや不快な幻影を送り込んでくる。蓮が首から下げた感応石は、訓練中は常に深い藍色に染まり、時に警告のように明滅を繰り返した。


「くっ…!」


ある時、蓮がフィールドを収束させる訓練に集中していると、突如として匣から強烈な冷気が放たれ、彼の精神の境界を突き破ろうとした。脳裏には、あの漆黒の鏡に映った、恐怖に歪む自分の顔と、その背後で嘲笑うかのように揺らめく『虚』の影がフラッシュバックする。


「蓮くん、境界を保て! 飲み込まれるな!」


如月の鋭い声が飛ぶ。蓮は咄嗟に、訓練で培った反発力をイメージしたフィールドを、匣の方向へと叩きつけるように展開した。


「う…おおっ!」


声にならない呻きと共に、蓮の身体から目に見えない衝撃波のようなものが放たれ、匣から放たれていた冷気が一瞬霧散した。しかし、その代償は大きかった。蓮は鼻から血を流し、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。


「…やったか…?」


ぜえぜえと息をしながら、蓮は匣を見た。匣は静まり返っていたが、表面の白金色の紋様が、先ほどよりも僅かに禍々しく、そして飢えたように輝きを増しているように見えた。


「…無茶をするなと言ったはずだ!」


如月が駆け寄り、蓮の体を支え、傷薬を染み込ませた布で鼻血を拭う。


「君の力はまだ未完成で不安定だ。ましてや『虚の匣』本体に直接対抗しようなど、自殺行為に等しい!」


「すみません…でも、少しだけ…手応えが…」


「それは『虚』がお前を試しただけかもしれんぞ! 僅かな成功体験で油断させ、更に深みへと引きずり込もうという罠かもしれん! 決して驕るな、蓮くん」


厳しい言葉とは裏腹に、如月の瞳には僅かな驚きと、蓮の潜在能力に対する再認識の色が浮かんでいた。古文書に記された伝説上の能力が、目の前の青年の中で確かに胎動し始めているのかもしれない。だがそれは、同時に計り知れない危険も孕んでいることを、彼は誰よりも理解していた。


訓練と並行して、如月は朧月市の地下に眠るとされる古代の祭祀場の情報を得るため、一族に伝わる他の古文書や、図書館の一般には公開されていない郷土史資料、古い地図などを徹底的に洗い直していた。


「伝承によれば、祭祀場は『虚』の最初の顕現に対抗するために築かれた、この街の『盾』の基盤となる場所だ。そこには、『虚の匣』よりも更に強力な封印、あるいは『虚』の力を中和する装置が存在した可能性がある。もしそれが今も機能しているか、あるいは修復可能ならば…あるいは君を『器』から解放する鍵が見つかるかもしれん」


しかし、情報はあまりにも断片的で、場所を示す正確な地図は見つからない。ただ、いくつかの資料が共通して示唆していたのは、その場所が図書館の真下、あるいは非常に近い地下深くに存在すること、そして入り口は物理的な扉ではなく、特定の条件下でのみ開かれる『位相門』のようなものである可能性だった。


「『月が最も欠け、星々が沈黙する時、古き泉の水面に真の道が現れる』…こんな詩のような記述がいくつかある」


如月は眉間に皺を寄せ、難解な古文書の一節を指差した。


「『月が最も欠ける時』は新月だろう。先日の儀式と同じタイミングだ。『星々が沈黙する時』とは何を意味するのか…特定の天文現象か? 『古き泉』とは…? 図書館の敷地内に、そのようなものは存在しないはずだが…」


蓮も古文書の解読に加わった。修復作業で培った彼の知識と勘は、如月の経験とは異なる視点をもたらすことがあった。


「師匠、この『泉』って、物理的な泉ではないのかもしれません。比喩的な表現というか…この記述、別の錬金術に関する写本で見た記号と似ています。そこでは『第一質料(プリマ・マテリア)』、つまり万物の根源となる混沌とした物質を『秘められた泉』と表現していました。もしかしたら…」


「『虚』そのもの、あるいはその力が最も凝縮された場所…か?」


如月の目が鋭く光る。


「なるほど…もしそうだとしたら、それは…」


二人の視線が、部屋の隅に置かれた『虚の匣』へと注がれた。匣こそが、現在この場所で最も『虚』の力を凝縮している『泉』なのかもしれない。そして『真の道が現れる』とは…?


「…もしかしたら、『水鏡の辻』で俺が囁き声の中に少女の声を聞いたように…あるいは『響き合わせ』の儀式の時のように…俺の『魂響』の力を使って、匣を通じて…?」


「危険すぎる!」


如月は即座に否定した。


「先日の儀式でさえ、君は危うく『虚』に取り込まれかけたのだぞ! ましてや、匣そのものに干渉して未知の『門』を開こうなど…!」


「でも、他に手がかりがないなら…やるしかないかもしれません。それに、もし成功すれば、それは俺自身の力が『虚』に対抗するレベルに達しつつある証拠にもなる」


蓮の瞳には、恐怖ではなく、決意の色が浮かんでいた。如月は反論しようとしたが、蓮の真剣な眼差しと、残された時間のなさを考え、重いため息をついた。


「…分かった。だが、条件がある。決して一人ではやらん。私も万全の準備をし、最大限の防御結界を張る。そして、ほんの僅かでも異常を感じたら、即座に中断する。いいな?」


「はい!」


一方で、朧月市の水面下で進行していた異変は、徐々に顕著になりつつあった。最初は蓮のような『魂響』を持つ者や、精神的に不安定な者だけが感じていた微細な歪みが、より多くの人々の五感を侵食し始めていたのだ。


「なあ、最近この辺り、妙に変な匂いがしないか? 甘ったるいような、でも腐ったような…」


商店街の店主が、隣の店の主人に話しかける。


「ああ、あんたもかい? ウチの女房も言ってたよ。気のせいかと思ってたんだが…」


「昨日の夜、家のすりガラスの窓に、一瞬だけ、誰かの顔みたいなものが映った気がして…。もちろん、すぐに消えたんだけど、すごく怖かった…」


主婦が井戸端会議で声を潜める。


「うちの子がね、夜になると押し入れの奥から『誰かが呼んでる』って泣き出すのよ。前はそんなことなかったのに…」


若い母親が、不安げに空を見上げる。


街の音響特性にも、奇妙な変化が現れ始めていた。本来ならすぐに消えるはずの音が、不自然な残響を伴って聞こえたり、逆に、すぐ近くの音が歪んで遠く聞こえたり。普段の「奥行きのないクリアな音」の世界に慣れた住民たちにとって、それは言いようのない不安感と不快感をもたらした。まるで、街全体を覆っていた分厚い吸音材が、少しずつ剥がれ落ち、その下にある未知の、そして不穏な「何か」の響きが漏れ出しているかのようだ。


如月は、街の見回りに出かける頻度を増やした。特に『水鏡の辻』のような、元々『虚』の影響を受けやすいとされる場所では、異変はより顕著だった。苔むした井戸の周りには、以前にも増して淀んだ空気が漂い、蓋の隙間から漏れ出す異臭は強まっていた。感応石を近づけると、もはや黒紫色を通り越し、石自体が苦鳴を上げるかのように微かに振動するほどだった。


「まずいな…」


如月は厳しい表情で呟いた。


「『虚』の力が活性化し、『門』が開きかかっている。このままでは、本格的な顕現も時間の問題かもしれん」


彼は一族に伝わる知識に基づき、井戸の周囲にいくつかの浄化と封印の護符を設置したが、それがどれほどの効果を持つかは分からなかった。気休めにしかならないかもしれない。根本的な解決策は、やはり地下の祭祀場を見つけ出し、そこに眠る力に頼るしかない。


そして、再び新月の夜が訪れた。星々が天に散りばめられているが、その輝きは朧月市の薄い靄にかすみ、弱々しい。『星々が沈黙する時』とは、このことなのだろうか? それとも、まだ何かが足りないのか?


蓮と如月は、再び地下の『星見の間』にいた。中央には『虚の匣』が安置され、周囲には以前よりも厳重な防御結界が張られている。如月は、額に汗を滲ませながら、古文書に記された呪文を繰り返し唱え、結界の強度を維持しようとしていた。


「蓮くん、準備はいいな?」


「はい」


蓮は匣の前に座り、深く息を吸い込んだ。感応石が首元で熱く脈打っている。意識の境界を確立し、呼吸を整える。前回の失敗と恐怖が脳裏をよぎるが、彼はそれを振り払った。少女を救うため、そして自分自身が『器』となる運命に抗うために。


「古文書の記述に従い、今回は『水門』ではなく、『道標(みちしるべ)』と呼ばれる別の紋様に『魂響』を集中させる。『虚』の深淵ではなく、あくまで『匣に繋がる道』を開くイメージだ。そして、少女の意識に呼びかけるのではなく、彼女自身の意志に委ねる。もし彼女に『道』を示す力があるならば、応えてくれるはずだ…」


如月の指示に従い、蓮は意識を集中させた。匣の表面に無数に刻まれた紋様の中から、羅針盤の針のような形をした『道標』の紋様を見つけ出す。そして、訓練で培った自身の『魂響』――制御された精神エネルギー――を、細く、しかし強く、その紋様へと流し込んだ。


ビリリ、と空気が震える。感応石が激しく明滅し、藍色と銀色の光を発する。『道標』の紋様が、ゆっくりと銀白色の光を放ち始めた。前回のような空間の歪みや『虚』の気配はない。代わりに、静かで、どこか厳粛なエネルギーが満ちていくのを感じた。


(頼む…!)


蓮は心の中で強く念じた。少女に届け。もし君が助けを求めているのなら、もし君に力があるのなら、道を示してくれ!


紋様の光が次第に強まり、匣全体が淡い銀色の光に包まれる。そして、驚くべきことが起こった。


匣の表面、ちょうど蓮がエネルギーを注ぎ込んでいる『道標』の紋様を中心に、周囲の空間が揺らぎ始めたのだ。蜃気楼のように、あるいは水面のように。その揺らぎの中から、現実の石造りの床とは明らかに異なる風景が、ぼんやりと透けて見え始めた。


それは、どこまでも続くかのような、巨大な石の柱が林立する空間だった。柱には、見たこともない複雑な紋様が刻まれ、それ自体が微かに青白い光を放っている。天井は見えず、深い闇に包まれているが、足元は磨き上げられた黒曜石のような床が、柱の光を反射して鈍く輝いている。空気はひんやりと澄み、途方もない歳月を感じさせる静寂が支配していた。


「…これは…!」


蓮は息をのんだ。


「…まさか…古文書にあった、地下祭祀場の光景…!」


如月も驚愕の声を上げる。


「匣を通じて、空間が…繋がったというのか!?」


揺らめく光景はまだ不安定で、今にも消えてしまいそうだ。その光景の中に、蓮は一つの人影を見た。


白い着物を着た少女。


彼女は、巨大な石柱の一本の根元に、力なく座り込んでいた。以前に見た時よりもやつれ、その姿は半透明になりかけているようにさえ見える。だが、彼女は確かに蓮の呼びかけに応え、こちらを見ていた。その瞳には、驚きと、疲れ切った諦観と、それでもなお消えない微かな意志の光が宿っていた。


少女は、ゆっくりと震える手を上げ、光景の中の、ある一点を指差した。それは、広間の奥にある、ひときわ巨大な石柱の根元だった。そこだけ、他の場所よりも強く青白い光が漏れ出ているように見える。


『…あそこ…に…封印の…核…が…』


声は、か細く、途切れ途切れだったが、今度は確かに蓮の耳に届いた。


『…でも…気を…つけて…「守護者」…が…』


少女がそこまで言いかけた瞬間、彼女の表情が恐怖に凍りついた。彼女の背後の闇から、ぞわりと総毛立つような気配が急速に膨れ上がる。


同時に、蓮たちがいる『星見の間』の防御結界が激しく軋み始めた!


「まずい! 『虚』がこちらの世界の反応を察知し、干渉を強めてきた!」


如月が叫ぶ。「蓮くん、接続を切れ! 早く!」


しかし、蓮は動けなかった。匣を通じて見た光景――地下祭祀場の風景――が、彼の『魂響』と強く共鳴し、彼の意識を捉えて離さないのだ。少女の声、祭祀場の神秘的な光景、封印の核、そして忍び寄る『虚』と『守護者』の気配。情報が奔流のように流れ込み、蓮の精神は飽和状態に陥っていた。


匣の『道標』の紋様は、制御を失ったかのように激しく明滅し、銀白色の光は禍々しい赤黒い色へと変調し始めている。揺らめいていた祭祀場の光景がぐにゃりと歪み、そこに『虚』の黒い亀裂が走り始める。


『―――アァ…アァ…見つけたぞ…入口を…コチラ側への…門を…―――』


おぞましい『虚』の声が、今度は少女の声と混じり合いながら響き渡る!


「蓮くん!!」


如月の悲痛な叫び。防御結界の青白い光が、赤黒い光と激しく衝突し、火花を散らす。『星見の間』の石壁がビリビリと震え、天井から砂塵が落ちてくる。


(ダメだ…! このままでは、師匠も、俺も、そしてあの少女も…!)


絶望的な状況の中、蓮の意識の奥底で、何かが弾けた。恐怖と怒りと、少女を救いたいという強い思い、そして『虚』への激しい反発心。それらが渾然一体となり、彼の内に眠っていた『魂響』の力が、奔流となって溢れ出したのだ。


それは、もはや制御されたエネルギーではなかった。蓮自身の存在、魂そのものを燃焼させるかのような、純粋な意志の爆発だった。


「うおおおおおおおおおおッッ!!!」


蓮の全身から、眩いばかりの『藍色』の光が迸った。それは、匣から発せられる赤黒い光を打ち消し、圧倒するように広がり、揺らめいていた祭祀場の光景、『虚』の亀裂、そのすべてを激しく掻き消した。


パァン!!


鋭い破壊音と共に、『虚の匣』の『道標』の紋様が砕け散る! 匣自体にも亀裂が走り、表面の白金色の紋様が明滅しながら急速に輝きを失っていく。


蓮は、そのまま意識を手放し、後ろへ倒れ込んだ。最後に見たのは、驚愕と、そして僅かな安堵の表情を浮かべた師匠、如月の顔だった。


・・・・・・


どれほどの時間が経ったのか。


蓮が意識を取り戻した時、彼は『星見の間』の床に横たわっていた。全身に激しい疲労感と、魂を削り取られたかのような虚脱感がある。だが、不思議と以前のような激しい頭痛や吐き気はなかった。むしろ、嵐が過ぎ去った後のような、奇妙な静けさが心の中にあった。


「…目が覚めたか、蓮くん」


すぐそばで、安堵と疲労の入り混じった如月の声がした。彼は蓮の体を支え起こす。


「師匠…俺は…」


「…大したものだ」


如月は、信じられないものを見るような目で蓮を見つめた。


「君は、最後の最後で『魂響』を暴走させ、結果的に『虚』の干渉を断ち切った。代償として、『虚の匣』の一部を破壊してしまったが…」


二人の視線が、中央に置かれた匣へと注がれる。『道標』の紋様があった場所は黒く焼け焦げ、砕けた破片が散らばっていた。匣全体に走った亀裂からは、以前よりも明らかに濃密な『虚』の気配が漏れ出している。だが同時に、以前のような積極的な干渉や悪意のこもった波動は弱まっているようにも感じられた。


「皮肉なことにな」


如月が続けた。


「匣の一部を破壊したことで、封印の力は確実に弱まった。だが、君が放った『魂響』の奔流が、『虚』の意識、あるいはその活動を一時的に『麻痺』させたのかもしれん。奴が再び本格的に動き出すまで、あるいは匣の封印が完全に崩壊するまでの、ほんの僅かな時間稼ぎにはなったやもしれん」


彼は立ち上がり、散らばった匣の破片を注意深く拾い集め始めた。


「そして何より、君は道を見つけたのだ。地下祭祀場へと繋がる道を。少女は我々に、封印の核の場所と、そこに潜む『守護者』の存在を教えてくれた。それが、今回の最大の収穫だ」


「守護者…あれは一体…」


「分からん。古文書にも記述がない。だが、あの場所を守る何らかの存在なのだろう。『虚』に対抗する力を持つのかもしれんし、我々をも排除しようとする危険な存在かもしれん。いずれにせよ、覚悟していく必要がある」


如月は拾い集めた破片を丁寧に布に包むと、蓮に向き直った。


「蓮くん、君はもう単なる『器』候補ではない。君は、自らの意志で『魂響』を発動させ、『虚』の干渉を退けた。君の力は、この状況を打開するための、我々にとって唯一の『剣』となり得る」


彼の言葉には、疑念ではなく、確信があった。


「だが、まだ足りない。君の力は未熟で不安定すぎる。地下祭祀場にたどり着く前に、そして『守護者』と対峙するために、君はその力を完全に制御し、使いこなせるようにならねばならん」


その日から、二人の訓練は更に過酷さを増した。『魂響』を精密にコントロールし、防御だけでなく、攻撃や浄化に応用するための訓練。蓮は、驚くほどの速度でその力を吸収し、成長させていった。感応石は、彼の成長を示すかのように、安定して深い藍色を保ち、時には蓮の意志に応じて自ら輝きを発するようにさえなった。


同時に、彼らは地下祭祀場への物理的な入口を探し始めた。少女が示した光景、古文書の断片的な記述、図書館の古い設計図、そして蓮の『魂響』による探査。それらを組み合わせ、徐々に候補地を絞り込んでいく。


そして、ついに彼らはそれらしき場所を発見した。それは、図書館の最も古い書庫棟の、さらに地下深く、長年忘れ去られていたボイラー室の奥の壁だった。一見すると、ただの分厚い石壁にしか見えない。だが、蓮が『魂響』を集中させると、壁の一部が微かに共鳴し、その奥に巨大な空洞と、弱いながらも古代のエネルギーの残滓を感じ取ることができた。


「ここだ…間違いない…」


蓮は確信を持って言った。


「…よし」


如月は頷き、一族に伝わる特殊な道具を取り出した。それは、奇妙な音叉(おんさ)のような形をした金属製の器具だった。


「これは『開門の音叉(かいもんのおんさ)』。特定の周波数の振動を与えることで、空間に隠された『扉』を一時的に開くことができるとされている。もしここが本当に位相門ならば、これで…」


如月は音叉を構え、古文書に記された特定のリズムで、壁の中心を軽く打った。


キィィィィン…


高く、澄んだ、しかしどこか異質な響きが空間に広がった。すると、音叉が触れた壁の石が、水面のように揺らぎ始め、その中心から渦を巻くように空間が歪み始める。やがて、歪みは安定し、人が一人通れるくらいの大きさの、漆黒の『穴』が現れた。穴の向こうには、先日の『響き合わせ』で見た、巨大な石柱が林立する神秘的な空間が広がっていた。


「開いた…!」


二人は顔を見合わせ、緊張と興奮に息をのんだ。だが、喜んでばかりはいられない。穴の向こうからは、澄んだ空気と共に、底知れぬ古えの気配と、そして『虚』とは異なる、別の強大な『何か』のプレッシャーが漂ってくる。


「…行くぞ、蓮くん」


如月は覚悟を決めたように言った。


「ここから先は、我々の知る世界ではない。何が待ち受けているか分からん。決して油断するな。そして、何があっても生き延びることを考えろ」


「はい!」


蓮は、首に下げた感応石を強く握りしめた。そして、師である如月と共に、鏡のない街の地下深くに広がる、失われた古代の秘密と、未知なる脅威が待つ深淵へと、その身を投じたのだった。

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