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02_器

「―――蓮くん…君が、その『器』として…選ばれてしまう、可能性がある…!」


如月師匠の絶望的な響きを帯びた声が、古文書修復室の重苦しい静寂に響いた。いや、反響と呼ぶには弱々しく、分厚い壁に吸い込まれるようにすぐに消え失せた。この街特有の、音の死んだ空間。それでも、師の言葉が持つ意味の重さは、蓮の鼓膜と魂そのものに鉛のようにのしかかってきた。


「俺が…器…? 『虚』の…?」


唇が震え、声が掠れる。目の前の黒檀の木箱――『虚の匣』――は、もはや単なる古代の遺物ではなく、自分自身を飲み込もうとする飢えた捕食者のように見えた。匣の表面で微かに明滅する白金色の紋様は、嘲笑うように、また引き寄せようとするかのように、妖しく輝いている。


昨夜の夢が生々しく蘇る。絶対的な暗闇。助けを求める少女の儚い光。背後から忍び寄り、すべてを飲み込もうとした『虚』の圧倒的な冷気と悪意。「器が目覚める前に」。あの言葉は、自分に向けられた警告だったのか?


頭が割れるように痛む。足元が揺らぎ、立っているのがやっとだった。自分が自分でなくなるかもしれない恐怖。形のない虚無に存在そのものを乗っ取られ、この世界に災厄を招くための「門」にされるかもしれないという戦慄。それは、単なる死よりも遥かに恐ろしい運命に違いなかった。


「…なぜ…俺なんですか…?」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。「ただの、図書館の修復士見習いなのに…」


如月は、動揺を抑えようと深く息を吸い込み、蓮の肩を強く掴んだ。老人のものとは思えぬほど力強いその手が、震える蓮の体を支えていた。彼の瞳には依然として深い憂慮があったが、それ以上に、この絶望的な状況に立ち向かおうとする強い意志の光が宿っていた。


「理由は…おそらく二つある」 彼は努めて落ち着いた声で語り始めた。「一つは、君が昨夜、『虚の匣』の封印に直接触れ、鏡を通じて『虚』の深淵と、匣に囚われた『彼女』と接触してしまったこと。あれが君の魂に『虚』に対する一種の『目印』、あるいは『座標』のようなものを刻んでしまったのかもしれない」


如月の言葉に、蓮はあの漆黒の鏡を覗き込んだ瞬間の衝撃を思い出す。生まれて初めて見た自分の顔。鏡の奥から現れたものたち。あの接触が、取り返しのつかない痕跡を残したというのか。


「もう一つの理由…こちらの方がより根源的かもしれんが…」 如月は言葉を選びながら続けた。「君自身が、もともと『虚』と感応しやすい、特殊な『資質』を持っている可能性が高いということだ。感応石が君に対してこれほど強く、しかも『藍色』に反応したことが、その証左に他ならない」


「資質…? 俺に、そんなものが…?」

「我々の一族…この街の『裏』を守ってきた者たちの中にも、稀にそうした資質を持って生まれる者がいた。彼らは『虚』の気配を鋭敏に察知し、時には『虚』の影響を僅かながら退ける力さえ持っていたという。だが同時に、それは諸刃の剣でもある。常人よりも『虚』に引き寄せられやすく、影響を受けやすい。最悪の場合…君が今直面しているように、『器』の候補として狙われる危険性も高まる」


如月はそこで一旦言葉を切り、蓮の目を見据えた。「蓮くん、君はもしかしたら、無自覚のうちに我々一族の血を引いているのかもしれん。あるいは、全く別の系統からその資質を受け継いだのかもしれない。それは今は重要ではない。重要なのは、君がその資質を持ち、かつ『虚』に目をつけられてしまったという事実だ」


蓮は言葉を失った。自分が特別な血筋や資質を持っているかもしれないなど、考えたこともなかった。ただ古文書が好きで、静かな場所でそれに触れているのが好きなだけだったのに。しかし、師の言葉、身に起こった出来事、そして首から下げた感応石の確かな反応が、その可能性を否定させなかった。


混乱と恐怖が再び蓮を襲う。逃げ出したい。何もかも忘れて、元の平凡な日々に、あの鏡を見る前の自分に戻りたい。それでも、脳裏にはあの少女の苦しげな顔が焼き付いている。彼女の「助けて」という声なき声が、今も耳の奥で響いているようだった。


(逃げられない…)


蓮は唇を噛みしめた。逃げたとしても、自分が「器」候補である限り、『虚』は追いかけてくるかもしれない。そうなれば、この街は、もしかしたら世界は…。それに、あの少女を見捨てることなど、できなかった。


「…俺は…どうすればいいんですか…? 器になるのを、止めることはできるんですか…?」


声はまだ震えていたが、そこには微かな、しかし確かな決意の響きが混じっていた。如月はその変化を見逃さなかった。彼の表情に、かすかな安堵の色が浮かぶ。


「可能性は…ある。決して楽観はできんが、完全に手詰まりというわけではない」 如月は頷いた。「まず、我々がやるべきことは三つだ」


彼は指を折りながら説明を始めた。


「第一に、『虚の匣』の状態を正確に把握し、可能ならば封印を強化すること。匣の内部で『虚』のエネルギーがどのように変質し、どの程度の速度で『器』を求めているのかを知る必要がある。それには匣の紋様の更なる解読と、我々の一族に伝わる観測・干渉技術の知識が必要になる」


「第二に、君自身の保護と強化だ。『虚』からの精神的な干渉や影響を防ぎ、君の持つ『資質』を制御する方法を学ぶ必要がある。それは君が『器』になるのを拒むための盾であり、同時に、いざという時に『虚』に対抗するための武器にもなり得る。そのためには特殊な精神集中の訓練や、古文書に記された護符や儀式の知識が要る」


「そして第三に、匣に囚われた『少女』についての情報を得ることだ。彼女が何者で、なぜ囚われ、何を望んでいるのか。彼女が『虚』への対抗手段を知っている可能性もある。あるいは、彼女自身が危険な存在である可能性も捨てきれない。いずれにせよ、彼女との接触は慎重に行わねばならんが、避けては通れんだろう」


三つの課題。どれも途方もなく困難で、危険を伴うものに思えた。それでもそれは、絶望的な状況の中に差し込んだ、僅かな光明のようにも感じられた。


「俺に…そんなことができますか…?」 不安が再び頭をもたげる。

「一人ではない」 如月は力強く言った。「私がいる。我々の一族が密かに守り継いできた知識と経験がある。何より、君自身の意志がある。恐怖に打ち勝ち、立ち向かうと決めた君の意志が、最大の力となる」


師の言葉は、蓮の心に温かい火を灯した。そうだ、自分は一人ではない。この頼りになる師匠がいる。自分の中にも、何か未知の力が眠っているのかもしれない。


「…分かりました」 蓮は深く息を吸い、真っ直ぐに如月を見返した。「やります。俺は…器にはならない。そして、あの少女を…助けられるものなら、助けたい」

「…それでこそだ、蓮くん」 如月は厳しくも温かい眼差しで頷いた。「では、早速始めよう。まずは君の精神を安定させ、外界からの影響を受けにくくするための基礎的な訓練からだ。私の知る限り、最も効果的で、古くから伝わる方法がある…」


彼はそう言うと、蓮を図書館の奥にある、普段は使われていない静かな閲覧室の一つへと連れて行った。窓はなく、壁一面が吸音材のようなもので覆われ、修復室以上に音が反響しない、完全な静寂に近い空間だ。部屋の中央には、古い一枚板の木製テーブルと、二脚の椅子だけが置かれている。


「ここは『沈黙の間(ちんもくのま)』と呼ばれている。かつて我々の一族が、精神集中や内観、あるいは特殊な儀式を行うために使っていた場所だ」 如月は説明した。「この部屋の極端な静寂は、外部からの感覚情報を遮断し、意識を内面に向ける助けになる。君がこれから学ぶのは、『意識の境界』を確立し、強化する訓練だ」


蓮は促されるままに椅子に座った。途端に、周囲の静けさが密度を増したように感じられる。自分の呼吸音や心臓の鼓動が、いやに大きく聞こえた。


「目を閉じなさい」 如月の静かな声が響く。「そして、自分の呼吸に意識を集中する。吸う息、吐く息。空気が出入りする感覚、胸の動き…。ただ、それだけを感じる」


蓮は言われた通りに目を閉じ、呼吸に意識を向けた。だが、なかなか集中できない。頭の中では様々な思考や不安が渦巻いている。『虚』の恐怖、少女の顔、自分が器になる可能性…。


「雑念が浮かんできても、無理に打ち消そうとしなくていい。ただ、それが在ることを認め、再び呼吸に意識を戻す。雲が流れるように、ただ観察するだけでいい」


如月は辛抱強く指導を続けた。蓮は何度も意識が逸れそうになるのを堪え、呼吸に集中しようと努める。どれくらいの時間が経っただろうか。徐々に、渦巻いていた思考が静まり始め、意識が澄んでくるような感覚があった。まるで、濁った水が時間をかけて沈殿し、透明になっていくようだ。


「…いいだろう。次は、自分の身体の輪郭を意識してみるのだ」 如月の声が続いた。「頭のてっぺんから、額、目、鼻、口…顔全体。首、肩、腕、指先…。胴体、脚、足の裏…。皮膚一枚で、外界と隔てられている、その『境界線』を、ゆっくりと感じてみる」


蓮は意識を自分の身体に向けた。普段、朧月市では意識することのない「自分の姿」の輪郭。触覚を通して、あるいは内的な感覚を通して、その存在を確かめていく。奇妙な感覚だった。自分の身体でありながら、まるで初めてその形を認識するかのように、新鮮で、少し心許ない。


「その『境界』が、君自身の領域だ。外界から君を守る、見えない壁だと想像しなさい。その壁は柔軟で、しかし強靭だ。不要なものは通さず、君の意志によってのみ、開閉することができる…」


蓮は、自分の全身を包む、薄く、しかし確かなエネルギーの膜のようなものをイメージした。穏やかに呼吸するように、微かに明滅している。


「良い。その感覚を保ちなさい。それが『意識の境界』を確立する第一歩だ。この訓練を毎日続けることで、境界はより強く、明確になっていくだろう。それは『虚』のような精神的な侵食に対する防御力を高めるだけでなく、君自身の内に眠る『資質』を安全に探るための基礎にもなる」


如月の言葉を聞きながら、蓮は自分の内面に確かに何かが変化し始めているのを感じていた。恐怖や混乱が完全に消えたわけではない。だが、その中心に、静かで揺るぎない「自分自身」の核のようなものが、朧げながら形を取り始めている気がした。


その日の午後は、如月から古文書の読解を通して、「虚」に関する断片的な知識や、一族に伝わる護符、象徴の意味などを教わった。それらは通常の歴史書や神話とは全く異なる体系を持ち、難解で、時には矛盾しているかのようにさえ思えた。多くは失われ、あるいは意図的に隠喩や暗号を用いて記されているため、解読には深い知識と洞察力が必要だった。


「『虚』は単なる悪意や破壊の力ではない。それは…『存在しないこと』そのものが持つ、ある種の『引力』のようなものだ。我々の世界の『存在』は、常に『虚』によってその対極へと引き寄せられ、無に帰ろうとする本質的な衝動を孕んでいる。だからこそ、『虚』との接触は極めて危険なのだ。我々の存在基盤そのものを揺るがしかねない」


如月は、羊皮紙に描かれた奇妙な螺旋模様を指差しながら説明した。その模様は、中心に行くほど線が細くなり、やがて完全に消えている。


「我々の祖先は、その引力に抗うために様々な『盾』や『楔(くさび)』を考案した。朧月市の街そのものが巨大な『盾』であることは話した通りだ。『虚の匣』のような封印具は、漏れ出した力を吸収し閉じ込める『楔』の役割を果たす。だが、それらはあくまで一時しのぎに過ぎない。完全に『虚』を消滅させる方法は、我々には伝わっていない」


蓮は、資料の中に繰り返し現れる、特定の幾何学模様や、奇妙な生物とも機械ともつかない存在を描いた図版に気づいた。それらは如月の説明によれば、『虚』の影響を中和したり、歪んだ空間を安定させたりする効果を持つとされるシンボルや、かつて『虚』と戦ったとされる、もはや伝説上の存在の姿らしい。


「これらの知識を頭に入れるだけでも、君の精神的な防御力を高める助けになるだろう。理解し、認識することが、未知の恐怖に対する最初の武器だ」


その日の終わり、蓮は疲労困憊していたが、同時に奇妙な充実感も覚えていた。未知の世界への扉が開かれ、自分がその一部となったことへの興奮。そして、困難な課題に立ち向かうための具体的な道筋が示されたことへの、僅かな安堵。


家に帰る道すがら、蓮は朧月市の街並みをいつもとは違う視点で見ていた。すりガラスの窓、揺らめく水面、光沢のない金属の手すり。それらすべてが、目に見えない脅威から自分たちを守るための、巨大な防御システムの一部に見えた。普段は気にも留めない街の音の乏しさが、今はまるで、すぐ隣に潜む深淵を覆い隠すための、不自然な静寂のようだった。


道行く人々。彼らは、自分たちの足元に潜む危機を知らずに生きている。その日常を守るために、自分が戦わなければならないのかもしれない。重い責任感が、蓮の肩にのしかかる。


首に下げた感応石は、図書館を出てからは再び漆黒に戻り、冷たさを保っていた。しかし、蓮には常にその存在が意識され、まるで身体の一部になったかのように感じられた。石は静かだが、いつでも反応する準備ができているかのようだ。


自宅アパートに戻り、簡素な食事を済ませると、蓮はすぐにベッドに入ったが、眠気はなかなか訪れなかった。今日の出来事が頭の中で繰り返し再生される。「器」という言葉の重み。精神集中の訓練で感じた微かな変化。古文書に描かれた不可解な図像。そして、鏡の中で見た少女の顔。


(彼女は、今もあの匣の中で苦しんでいるのだろうか…?)


目を閉じると、再びあの暗闇と少女の光景が浮かびそうになる。蓮は慌てて目を開け、如月に教わった呼吸法を試した。ゆっくりと呼吸に集中し、意識の境界をイメージする。徐々に心が落ち着きを取り戻し、やがて深い眠りへと落ちていった。



それから数日間、蓮の日常は一変した。表向きは「体調不良」で図書館を休み、実際には如月の指導のもと、「虚」との戦いに備えるための知識と訓練に明け暮れた。午前中は「沈黙の間」での精神集中と意識の境界を強化する訓練。午後は古文書の解読と、「虚」や一族の伝承、護符やシンボルの意味についての学習。夜は疲れ果てて眠るだけだったが、それでも夢には時折、断片的なイメージが現れた。少女の姿、蠢く影、理解不能な幾何学模様。それでも、意識の境界を保つ訓練のおかげか、以前のように悪夢にうなされることは少なくなっていた。


感応石は、普段は静かなままだが、蓮が『虚の匣』に近づいたり、「虚」に関する特に重要な記述に触れたりすると、微かに熱を帯び、藍色に変化する。それは蓮自身の感覚とも連動しているらしく、石が反応する時、蓮もまた、軽い眩暈や、空間が歪むような奇妙な感覚を覚えることがあった。


「君の感応能力は、確実に目覚めつつあるようだ」 如月は、感応石の変化を注意深く観察しながら言った。「焦りは禁物だ。能力は制御できなければ、ただの暴走する力に過ぎない。今は基礎を固めることが何より重要だ」


蓮もそれを理解していた。自分の内側で何かが変わり始めているのを感じてはいたが、それがまだコントロール下にないことも自覚していた。街を歩いていると、時折、他の人々には聞こえないはずの微かな囁き声や、視界の隅を掠める影のようなものを感じることがあった。それが現実なのか、精神的な疲労による幻覚なのか、まだ判別がつかない。


朧月市の街自体も、蓮には以前とは違って見えた。表面的には何も変わらない、静かで反射のない街。だが、その水面下で、何かが静かに、しかし確実に変化しているような予感がした。特定の路地裏に漂う、いつもより濃密な影。風もないのに不自然にざわめく公園の木の葉。そして時折すれ違う人々の表情に浮かぶ、説明のつかない不安や焦燥の色。


(これも、俺の感応能力が高まったせいなのか? それとも、本当に『虚』の影響が広がり始めているのか…?)


蓮はその疑問を如月にぶつけてみた。如月は難しい顔をして答えた。


「両方かもしれん。君の感覚が鋭敏になったことで、以前は見過ごしていた微細な変化を捉えている可能性はある。だが同時に、『虚の匣』の封印が綻び始めている以上、『虚』の影響が少しずつ街に漏れ出している可能性も否定できない。特に、人の精神は『虚』の影響を受けやすいからな…」


如月によれば、朧月市の「盾」としての機能も完璧ではなく、街にはいくつかの「弱い」場所が存在するという。古くからある水路の一部、特定の建造物の地下、あるいは歴史の中で「良くない」出来事が起こった場所など。そうした場所は、『虚』の影響が現れやすい「特異点」となる可能性があるらしい。


「そろそろ、座学だけではなく、実際に街に出てみる必要があるかもしれんな」 ある日の午後、如月は言った。「君の感応能力を実践的に試し、制御する訓練をする。そして、街に『虚』の兆候が現れていないか、我々自身の目で確かめる必要がある」


それは、蓮にとって新たな段階への移行を意味していた。安全な図書館の中での訓練とは違う、現実の脅威と向き合う可能性のあるフィールドワーク。緊張と、わずかな興奮が蓮の胸をよぎる。


「どこへ行くんですか?」

「まずは、『水鏡の辻(みかがみのつじ)』と呼ばれる場所へ行ってみよう。古くからの俗称だが、かつてこの街が『水鏡の都』と呼ばれていた時代の名残の一つとされている。そこには、今もなお、朧月市の中でも比較的『水』の気配が濃いとされる古い井戸がある。それに、いくつかの良くない噂も囁かれている場所だ」


水鏡の辻。その名前自体が、この街のタブーに触れるような響きを持っていた。蓮は、首に下げた感応石を強く握りしめる。


翌日、蓮と如月は、人通りの少ない時間帯を選び、図書館を後にした。目的地である水鏡の辻は、図書館からは少し離れた、古い住宅や商店が密集する地区の一角にあった。入り組んだ路地をいくつか抜けると、不意に小さな広場のような空間に出た。石畳の中央には、苔むした古い石造りの井戸が、忘れられたように佇んでいる。井戸の周囲だけ、空気がひやりと冷たい。


広場に面していくつかの古い家屋が建っているが、人気(ひとけ)はほとんどない。窓は例外なくすりガラスか、固く閉ざされた板戸で、中の様子を窺い知ることはできない。この場所だけ、街の他の場所よりもさらに時間が止まっているような、淀んだ空気が漂っていた。


「…何か、感じますか?」 蓮は小声で尋ねた。

「ああ…」 如月は険しい表情で周囲を見回している。「空気が重い。それに…微かだが、歪んでいるような感覚がある。おそらく、この井戸が…」


彼は井戸にゆっくりと近づいていく。蓮もそれに続いた。井戸は分厚い木製の蓋で固く閉じられていたが、その隙間から、湿った土と黴(かび)の匂いに混じって、形容しがたい、わずかに甘く腐敗したような異臭が漂ってくる。


「蓮くん、感応石を」


蓮は言われるままに、首から下げた感応石を井戸の蓋に近づけた。瞬間、石がこれまでになく激しく反応した。漆黒から深い藍色を通り越し、まるで底なしの暗闇そのものを映したかのような、光を吸い込む『黒紫色』へと変化したのだ。同時に、石が急激に熱を持ち始め、火傷しそうなほど熱くなった。


「うわっ!」


蓮は思わず手を引っ込めた。石は数秒で元の黒曜石の色と温度に戻ったが、蓮の手にはまだ熱さが残っている。


「…やはり、ここか」 如月の声は硬い。「この井戸は、おそらく地脈を通じて『虚』の影響を強く受けている。あるいは、この井戸そのものが、過去に何らかの形で『虚』と関わる事件の舞台となったのかもしれん」


彼は周囲の家屋に鋭い視線を送った。


「この場所に長年住んでいる者の中には、精神に異常をきたしたり、不可解な失踪を遂げたりする者がいたという話もある。公にはなっていないが、我々の一族の間では要注意地点として記録されていた」


蓮は、井戸と周囲の家々から放たれる不気味な気配に、背筋が寒くなるのを感じた。この静かな広場が、実は街の歪みが集積する場所の一つだったとは。


「師匠、俺…何か、声のようなものを感じる気がします。井戸の底から…?」 蓮は耳を澄ませた。実際に音が聞こえるわけではない。しかし、脳内に直接響くような、低く、もだえるような囁き声の断片が、断続的に聞こえてくるようだった。苦痛のようでもあり、誘惑のようでもあった。


「聞こえるか…? それは危険な兆候だ、蓮くん。『虚』はしばしば、人の精神の弱い部分につけ込み、幻聴や幻覚を見せる。決して耳を貸してはならない。意識の境界を強く保て」


如月は警告し、蓮の肩に手を置いた。その手に込められた力と、昨日までの訓練が、蓮の意識を現実へと引き戻す。蓮は深く呼吸し、囁き声から意識を逸らした。


「君がそれを感じ取れるということは、やはり君の感応能力が覚醒し、この場所の異常を探知している証拠でもある」 如月は複雑な表情で言った。「この力は、使い方を誤れば自滅を招く。だが正しく制御できれば、我々にとって強力な武器になるだろう」


彼らはしばらくその場に留まり、井戸とその周辺のエネルギーの状態を観察した。如月は時折、古文書で見たような複雑な手印を結んだり、地面に特殊な粉末を少量撒いたりして、何らかの測定や浄化を試みている。


「今日はここまでだ」 最終的に如月は判断した。「これ以上長居するのは危険だ。少なくとも、この井戸が『虚』の力の集積点の一つであり、潜在的な『門』となり得ることは確認できた。街の監視体制を強化する必要があるな」


帰り道、蓮は黙り込んでいた。初めて直接的に『虚』の気配が濃密な場所に触れた経験は、彼に大きな衝撃を与えた。そして、自分の持つ感応能力が、現実の危険と直結していることを改めて実感させられた。


「怖いか?」 如月が静かに尋ねた。

「…はい」 蓮は正直に答えた。「でも…それだけじゃないんです。あの囁き声の中に、ほんの一瞬だけ…あの少女の声が混じったような気がしたんです。『ここじゃない』って…」

「…何だと?」 如月は足を止めた。「少女の声が…? それは確かかね?」

「分かりません。気のせいかもしれません。でも、確かにそう感じたんです」


如月は眉をひそめ、深く考え込んだ。


「もし本当なら…彼女は君に警告を送ろうとしているのかもしれない。『虚』の誘惑の中から、必死に…」 彼は呟いた。「やはり、彼女との接触は避けられない。そしてそれは『虚の匣』を通じてしか行えない可能性が高い…」


図書館に戻ると、如月はすぐに修復室の奥にある一族の記録を保管した書庫へと向かい、何冊かの古びた書物を取り出してきた。


「蓮くん、君にはこれを読んでもらう」 彼は、そのうちの一冊、黒い革で装丁された分厚い本を蓮に手渡した。「これは、我々の一族に代々伝わる、『匣』及びそれに類する封印具の扱いについて記された最も詳細な記録だ。ただし、記述は極めて難解で、暗号化されている部分も多い。君の古文書解読の知識と、君自身の感応能力を使って、この記録から『虚の匣』と中の少女と安全に接触する方法を探り出してほしい」


それは、蓮の専門知識と、新たに目覚めつつある能力の両方を試す、極めて重要な任務だった。


「分かりました」 蓮は本をしっかりと受け取った。「やってみます」


その日から、蓮の訓練は新たな段階に入った。精神集中の訓練と並行して、彼はその黒い革装丁の本の解読に没頭した。本には、様々な種類の封印具の構造図、表面に刻まれた紋様の意味、内部エネルギーの観測方法、さらに稀にではあるが、封印された存在との限定的な『交感』を試みた記録などが、古い独特の言語や記号で記されていた。


解読は困難を極めた。記述は断片的で、多くの部分は経験則や口伝に頼っているかのようで、論理的な整合性が取れない箇所も多い。蓮は諦めなかった。古文書修復で培った忍耐力と分析力、加えて時折、感応石の反応や自身の直感を頼りに、少しずつその内容を紐解いていった。


特に蓮の注意を引いたのは、「魂の共鳴(たましいのきょうめい)」あるいは「響き合わせ」と呼ばれる、封印された意識体との交信に関する記述だった。それは術者の精神を極めて特殊な状態に保ち、封印具の特定の紋様を通じて意識の波長を合わせることで、限定的な情報のやり取りを可能にするというものだったが、同時に極めて危険な行為であるとも強調されていた。術者の精神が封印された存在に引きずられたり、逆に『虚』の本体の干渉を招いたりする危険性が常に伴う、と。


(これだ…これを使えば、あの少女と話せるかもしれない…)


蓮は、その記述に関連する図版や数式のようなものを食い入るように見つめた。蓮が最初に匣に触れた時に出現した「鏡」の描写にも似ている。特定の紋様に意識を集中し、ある種のエネルギーを流し込むことで、「境界」を一時的に薄くする技術なのだろうか?


数日が過ぎ、蓮はある程度の理論と手順を把握することができたと感じた。もちろん、実際に試すには計り知れないリスクが伴う。だが、時間は限られている。「器」の覚醒という脅威が迫っているのなら、躊躇している余裕はない。


蓮は自分の考えを如月に伝えた。如月は蓮の解読結果に目を通し、長い沈黙の後、重々しく口を開いた。


「…確かに、これが唯一の方法かもしれん。古文書に記された『響き合わせ』の儀式…。成功例も記録されているが、失敗し、精神を取り込まれた者の記録も少なくない。それでも…君はやる覚悟があるか?」

「はい」 蓮は迷わず答えた。「彼女に聞かなければならないことがある。それに、俺が『器』候補だというなら、尚更です。何か、対抗する手段を見つけないと」

「…分かった」 如月は頷いた。「ならば、準備をしよう。儀式を行うには、最適な日時と場所、そして厳重な防御結界が必要だ。私にできる限りの準備をする。最終的に『境界』を渡るのは君自身だ。決して、意識を手放すなよ」


決行は三日後の新月の夜と定められた。場所は、図書館の地下深く、一族が代々儀式に使ってきたとされる、さらに奥まった特別な一室。その間、蓮は精神集中と意識の境界を保つ訓練を繰り返し行い、如月は必要な道具や護符、結界の準備を進めた。


修復室の隅に置かれた『虚の匣』は、以前にも増して不気味な静けさを保っていた。だが、蓮にはその沈黙の下で、強大なエネルギーが渦を巻き、変質し、何かが目覚めようとしているのが感じ取れた。感応石は、匣に近づくだけで常に深い藍色を帯び、時には熱を発するようになっている。


三日後、新月の夜。


蓮と如月は、図書館の通常業務が終わり、職員が全員帰宅したのを確認した後、地下深くへと降りていった。普段は固く閉ざされている重厚な鉄の扉を開け、さらに狭く長い階段を下りていく。湿った冷たい空気が漂い、壁には奇妙な染みがいくつも浮き出ていた。


最深部にあったのは、驚くほど広大な、円形の石造りの空間だった。天井は高く、ドーム状になっている。壁には一切の窓も装飾もなく、ただ滑らかな黒い石が、吸い込まれるような闇を湛えている。床の中央には、直径五メートルほどの円形の模様が刻まれており、その模様は『虚の匣』の表面の紋様とも、如月が使った『浄化の盤』の模様とも異なる、極めて複雑で多重的な幾何学パターンで構成されていた。


「ここが『星見の間(ほしみ の ま)』だ」 如月が囁いた。「古来、我々の一族が、天体の運行を読み、世界の異変を察知し、そして『虚』と対峙するための儀式を行ってきた場所だ」


円形の模様の外周に沿って、如月はいくつかの特殊な燭台を設置し、青白い炎を灯した。さらに何種類かの鉱石や乾燥した薬草を特定の場所に配置していく。空間を浄化し、『虚』の干渉を防ぐための防御結界を構築する作業だ。


最後に、彼は中央の円の中心に、あの『虚の匣』を厳かに安置した。黒い匣は、この異質な空間の中心で、まるで祭壇に捧げられた供物のように、静かに、しかし圧倒的な存在感を放っていた。


「準備は整った」 如月は蓮に向き直った。「蓮くん、心の準備はいいか?」

「はい」 蓮は深呼吸をして答えた。恐怖はあった。だが、それを上回る決意と、少女への強い思いが彼を支えている。首の感応石が、期待と不安を示すかのように、微かに脈打っていた。


蓮は如月に促され、円形の模様の内側、匣の前に座った。如月は蓮の背後に立ち、防御と支援のための呪文を低く唱え始める。


「古文書の指示に従いなさい」 如月の声が響く。「意識を集中し、匣の特定の紋様…『水門(すいもん)』と呼ばれる箇所に、君の精神エネルギーを注ぎ込むのだ。決して深入りしすぎるな。境界が開き、少女の意識の波長を感じたら、すぐに呼びかけることに集中する。長時間の接触は危険だ」


蓮は頷き、目を閉じた。そして古文書の記述と図版を思い出しながら、意識を『虚の匣』へと向けた。数ある複雑な紋様の中から、『水門』とされる、渦巻きが幾重にも重なったような特定のパターンを探し出す。


(ここだ…)


蓮はその紋様に意識を集中させた。それから如月に教わった通り、自身の精神エネルギー――意志の力、生命力、感応能力が混じり合ったもの――を、細い光の糸のようにイメージし、その紋様へと慎重に流し込み始めた。


最初は何も起こらなかった。だが、蓮が集中を高め、エネルギーの流れを強めていくと、脳内でパチリと何かが弾ける感覚があった。同時に、目の前の『虚の匣』が、物理的な光を発し始めた。『水門』の紋様が淡い銀色の光を放ち、ゆっくりと回転を始めたのだ。


(開く…境界が…!)


蓮は息をのんだ。周囲の空間が歪み始める。目の前の匣が遠のいたり近づいたりし、耳の奥でキーンという高い金属音が鳴り響く。


そしてあの時と同じ感覚が蘇る。深く、生温い虚無の中へと意識が引きずり込まれていく感覚。だが、今回は恐怖に身を任せるわけにはいかない。蓮は必死に意識の境界を保ち、自我を維持しようと努めた。


その時、虚無の闇の中に、再びあの白い光が見えた。以前よりも少しだけはっきりとした、白い着物を着た少女の姿。彼女はこちらに背を向けていたが、蓮の接近に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。


その顔は、やはり苦痛と悲しみに歪んでいたが、同時に驚きと、微かな希望の色も浮かんでいた。


(今だ…!)


蓮は、声に出すのではなく、意識の中で強く呼びかけた。


『聞こえるか!? 俺だ! 図書館の…蓮だ! 君は誰なんだ!? なぜ匣の中に!?』


少女の唇が、声にならない形ではくはくと動く。その意味を読み取ろうと蓮が集中した、まさにその瞬間。


ゾッ…!


これまで感じたことのない、圧倒的な質量を持った悪意と冷気が、すぐ背後に迫るのを蓮は感じた。夢の中の比ではない。現実の、物理的な圧力さえ伴う『虚』の本体、あるいはその強力な一部が、開いた境界を通じてこちらを覗き込んでいる!


『―――見つけたぞ、小僧…新しい『器』……』


直接脳髄に響く、おぞましい声。嘲笑と、飢えと、絶対的な無への渇望が混じり合った、聞く者の精神を根こそぎ破壊するような響きだった。


「うわああああああッ!!」


蓮は思わず現実世界で悲鳴を上げていた。全身の力が抜け、意識が急速に暗闇へと引きずり込まれていく。


(ダメだ…! 飲み込まれる…!)


『逃げて…!! 早く…!!』


少女の悲痛な声が、かろうじて意識の断片に届いた。


その時、背後で如月の鋭い声が響き渡った。


「破ァッ!!」


力強い言霊(ことだま)と共に、防御結界が眩いばかりの青白い光を放つ。空間に響き渡る激しいエネルギーの衝突音。如月が投げつけた護符が空中で燃え上がり、『虚』の侵入を辛うじて押しとどめている。


「蓮くん! 戻れ! 意識をこちらに戻すんだ!」


師の必死の声に引き戻されるように、蓮は最後の力を振り絞って『虚』の引力に抗った。意識の境界を強くイメージし、現実世界への繋がりを求める。


ぐん、と身体が後ろに強く引かれる感覚。次の瞬間、蓮は『星見の間』の冷たい石の床の上に、荒い息をつきながら倒れ込んでいた。目の前では『虚の匣』の紋様の光が消え、再び元の静寂を取り戻していたが、匣から放たれる禍々しいオーラは明らかに増している。そして蓮が座っていた場所には、円形の模様の一部が焼け焦げたように黒く変色し、嫌な臭いを発していた。


「はぁ…はぁ…師匠…」 蓮はかろうじて上半身を起こした。全身が汗で濡れ、心臓がまだ激しく波打っている。


「…無事か、蓮くん!」 如月が駆け寄り、蓮の体を支えた。彼の顔も蒼白で、額には汗が滲んでいる。防御結界を維持し、『虚』の干渉を押し返したことで、彼も相当な消耗を強いられたようだ。「もう少し遅ければ、君の精神は完全に引きずり込まれていた…! なんという力だ…封印は我々の予想以上に弱まっている…!」


彼は苦々しげに『虚の匣』を睨みつけた。


「す、すみません…俺…」

「いや、君のせいではない。よくぞ耐えた」 如月は蓮を励ますように肩を叩いた。「それに…完全に失敗というわけでもない。何か、少女から情報を得られたかね?」

「はい…ほんの一瞬ですが…彼女の声が…『逃げて、早く』と…それから俺の後ろに現れた『虚』が…『新しい器を見つけた』と…」

「…やはりそうか…」 如月は厳しい表情で頷いた。「『虚』は明確に君を『器』として認識し、狙っている。そして少女は…君を助けようとしている…少なくとも、現時点では」


彼は立ち上がり、焼け焦げた床の一部を調べながら続けた。


「今回の接触で、『虚』は我々の世界の『存在』により強く錨を下ろした可能性がある。封印の劣化は加速し、『器』の覚醒も早まるだろう。我々に残された時間は、本当に少ないのかもしれん」


絶望的な状況。だが、蓮の心の中には、恐怖と共に、新たな感情が芽生え始めていた。怒りだ。自分を、そしておそらくはこの世界をも飲み込もうとする『虚』に対する、激しい怒り。加えて、匣の中で苦しみながらも警告を発してくれた少女を、絶対に救い出したいという強い思い。


「師匠、まだ何か…何か手はないんですか? 匣の封印を強化する方法とか、俺が『器』になるのを防ぐ、もっと強力な方法は…」

「…あるには、ある」 如月は重々しく答えた。「が、それらは失われた技術であったり、多大なリスクや犠牲を伴うものばかりだ。古文書には、朧月市の地下深くに眠るとされる古代の祭祀場や、そこで使われたとされる更に強力な封印具の存在が示唆されている。しかし、その場所も、それが今も機能しているのかも定かではない…」


彼は蓮の目を真っ直ぐに見据えた。


「蓮くん。これから我々が進む道は、さらに険しく、危険なものになるだろう。もはや、引き返すことはできない。君には、その覚悟があるか?」


蓮は、床に落ちていた自分の『感応石』を拾い上げた。石はまだ微かに熱を帯び、深い藍色をしていた。その中に、少女の悲痛な表情と、『虚』の嘲笑う声が反響する。


彼は、石を強く握りしめ、立ち上がった。足はまだ少し震えていたが、瞳には確かな決意の光が宿っていた。


「覚悟は…できています。俺は逃げません。戦います。師匠、俺にできることを教えてください」


その言葉に、如月は初めて、心からの笑みを微かに浮かべたように見えた。長く孤独な戦いを続けてきた老いた守り手の、次世代への希望と信頼の証だった。


「よし。ならば、次なる一手を考えよう。地下の祭祀場…あるいは街の『盾』そのものを強化する方法…。君の感応能力を、防御だけでなく、『虚』に対抗するための力へと昇華させる訓練を始めねばなるまい」


二人は、禍々しさを増した『虚の匣』を後にし、重い足取りで地下深くの『星見の間』を後にした。朧月市の静かな夜は、彼らの知らないところで、刻一刻と深淵へと近づいていた。鏡のない街の、歪んだ平和の終わりは、もう間近に迫っているのかもしれない。だが、闇の中に灯った二つの小さな決意の炎は、まだ消えてはいなかった。

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