意識は、深い水底からゆっくりと浮上するように戻ってきた。瞼(まぶた)の裏で明滅する残像。耳奥で鳴り続けていた金属的な高周波音は、鈍い頭痛と、分厚い綿にくるまれたような聴覚の閉塞感に変わっていた。全身が鉛のように重く、指一本動かすことすら億劫だ。
「……ん…」
掠れた呻きが自分のものであると気づくのに数秒かかった。ゆっくり目を開けると、見慣れた古文書修復室の、ひび割れた漆喰(しっくい)の天井が視界に入った。普段感じる埃と古紙の匂いに混じり、薬草とも消毒液ともつかない、微かに清涼感のある、それでいてどこか不穏な香りが鼻腔をくすぐる。
「…目が覚めたかね、蓮(れん)くん」
すぐ傍らから、静かで落ち着いた声がした。体を起こそうとする蓮の肩を、皺(しわ)の多い、だが意外なほど力強い手がそっと押さえる。師である如月(きさらぎ)だった。彼はいつもの修復用眼鏡ではなく、フレームの細い老眼鏡をかけ、心配そうな、しかしそれ以上に深刻な色を瞳に宿し、蓮の顔を覗き込んでいる。
「師匠…? いったい、何が…?」
記憶が断片的に蘇る。あの黒い木箱。白金色の紋様。指先の閃光。鏡――漆黒の、完璧な鏡。そこに映った自分の顔。助けを求める少女。這い寄る、形のない虚無。脳髄を焼くような痛みと音。
「うっ…!」
蘇った記憶の断片は、強烈な吐き気と眩暈(めまい)を伴って蓮を襲った。顔をしかめ、こめかみを押さえる。
「無理に思い出そうとするな。少し…常軌を逸したモノに触れてしまったのだ。精神が過度の負荷を受けた。今は安静にするのが一番だ」
「あの箱は…? それに、床に…何か…」
「箱はここにある」
如月は、蓮が横たわる簡易ベッド(来客用か仮眠用に置かれているものだろう)の足元を顎で示した。そこには、あの禍々しい黒檀の木箱が、依然として不気味な沈黙を保って置かれていた。表面の白金色の紋様は今は静かに見えるが、蓮にはそれが嵐の前の静けさに感じられた。蓮が倒れていたらしい場所には…。
「…あれは…」
蓮は息をのんだ。直径三十センチほどの、形容しがたい「黒」が広がっていた。染みとも影とも違う。周囲の床材の質感や光の当たり具合を完全に無視し、ただ「無」が存在するかのような異様な領域だった。図書館の薄暗い照明の光すら、その表面に届く前に吸い込まれ消えるように見える。物理法則が歪められたかのような、絶対的な暗黒。
「『虚(うつろ)の残滓(ざんし)』とでも呼ぶべきものだ」
如月が重々しく言った。その声には、普段の穏やかさの奥に隠された深い知識と、底知れぬ憂慮が滲んでいた。
「君が箱の封印の一部に触れ、おそらくは一時的に解いてしまったのだろう。その際に漏れ出した『虚』の力が、この空間に物理的な痕を残したのだ。光を反射せず、おそらくは音や熱すら吸収する…。いわば、この世界に穿(うが)たれた小さな『穴』だ」
「虚…師匠が言っていた、あの…」
「そうだ。伝説にある、かつてこの街を脅かしたという存在…力そのもの、と言ってもいい。我々が忘れ去り、封じ込めてきたはずの…災厄の根源だ」
如月は立ち上がり、その黒い「残滓」の数歩手前で足を止めた。それ以上は決して近づこうとせず、まるで猛獣を観察するように慎重な視線を送っている。
「幸い、本格的な顕現には至らなかった。君が気を失ったことで箱との接触が断たれ、おそらく封印に自己修復機能のようなものが働いたのだろう。でなければ…我々は今頃、この図書館もろとも存在ごと『消去』されていてもおかしくなかった」
ぞわり、と蓮の背筋を悪寒が走った。「消去」。その言葉は単なる比喩には聞こえなかった。
「俺は…あの鏡の中で…自分の顔を見たんです。生まれて初めて…。それに、女の子が…白い着物を着た女の子が、助けてくれって…。その後、真っ黒な何かが…」
「…鏡を、見たのだな」
如月の声が一層低くなった。驚きというより、むしろ予期していたことが現実になった、という響きだ。
「そして、彼女も…か。…やはり、蓮くん、君は…」
彼は何か言いかけたが、すぐに口をつぐみ、蓮に向き直った。その表情は決意を固めたように厳しい。
「蓮くん、よく聞きなさい。君が体験したのは、単なる悪夢や幻覚ではない。君が垣間見たものは、この朧月市(おぼろづきし)の、いや、この世界そのものの根幹に関わる深淵の一端だ」
「深淵…?」
「我々が暮らすこの街、朧月市がなぜ『鏡のない街』となったのか。その本当の理由について、断片的にでも話しておかねばなるまい。君はもう、知ってしまったのだから。そして、おそらくは…いや応なく、この事態に深く関わることになるだろうから」
如月は蓮の傍らに椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。彼の瞳は修復室の薄暗がりの中、古井戸の底のように深く静かに揺れていた。
「伝説のいくつかは、ある意味で真実を突いている。特に、鏡が『境界』であり『門』であるという説は核心を突いている。だが、それは異界や魑魅魍魎(ちみもうりょう)といった牧歌的なものではない」
彼は一度言葉を切り、重い扉を開けるかのようにゆっくりと続けた。
「我々の世界とは全く異なる法則で成り立つ『外側』がある。そこは、我々の知る物理法則、因果律、時間、空間、さらに生命や意識の概念すら通用しない領域だ。古来、人々は様々な名で呼んだが…我々の祖先の一部は、それを最も的確に『虚(うつろ)』と名付けた。何もない。だが、すべてを侵食し、無に帰する絶対的な虚無。それが『虚』の本質だ」
「虚無…それが、俺が見たあの黒い…?」
「そうだ。それは形を持たず、意志すらあるのか定かではない。ただ、『存在する』ことを許さない力なのだ。『鏡』、特に極限まで純粋な反射面は、我々の世界と『虚』とを繋ぐ最も危険な接点、すなわち『亀裂』となり得る」
如月の言葉が、蓮の頭の中で朧月市の不可解な日常と結びつき始めた。反射のない街。音の反響が極端に少ない街。光が拡散される街。それはすべて、意図的に「虚」との接点を減らし、世界に「亀裂」が入るのを防ぐための巨大な防御機構だったのではないか?
「かつて、この街…まだ朧月市と呼ばれる遥か以前、古代の祭祀場か高度な技術を持つ文明があった場所で、『虚』の力の一部が何らかの理由でこの世界に漏れ出した。それがどのような惨劇を引き起こしたのか、具体的な記録はほとんど残っていない。ただ、それを封じ込めるために、当時の人々…おそらく我々のような古文書や遺物の守り手の一族の前身が、多大な犠牲を払ってある『システム』を構築したのだと思われる」
「システム…?」
「ああ。一つは、街全体から『反射』という概念そのものを可能な限り排除すること。君も知っての通りだ。建築物、水面、生活用品に至るまで。人々が無意識のうちに『虚』への扉を開いてしまうリスクを最小限に抑える、物理的な防壁だ」
「もう一つは、より強力で根源的な封印。それが、君が触れたあの黒い木箱…『虚の匣(うつろのはこ)』と呼ばれるものの類(たぐい)だろう。漏れ出した『虚』の力を吸収し、内部に封じ込めるための古代のアーティファクト(遺物)だ。表面の紋様は単なる装飾ではない。それは『虚』の力を抑制し安定させる、極めて高度で複雑な『数式』あるいは『呪印』のようなものなのだ」
蓮は足元に置かれた黒い木箱を見つめた。あの蠢くように見えた紋様は、古代の超技術か魔法としか言いようのない力で編まれた、封印の鎖だったのだ。
「だが、封印は永遠ではない。特に『虚』のように常に我々の世界を侵食しようとする力を相手取る場合、封印は徐々に劣化し、あるいは外部からの強い衝撃や特定の条件下で綻(ほころ)びが生じることがある。図書館の記録保管庫の奥深くに秘匿されていたこの匣が、なぜ今になって我々の前に現れたのかは不明だ。封印の限界が近づいていることを示す、何らかの予兆なのかもしれない…」
如月の表情が一層険しくなる。
「そして、蓮くん。君が鏡の中で見たという『少女』…。それが問題なのだ」
「あの女の子は、一体…? まるで助けを求めているように見えました。すごく苦しそうで…」
「おそらく…いや、ほぼ間違いなく、彼女は『虚の匣』に囚われている『何か』だ。しかし、単純な犠牲者ではないかもしれん。『虚』に対抗する力を持つ存在か、あるいは『虚』そのものと深い関わりのある別の何か…。古文書の中には稀に、『虚』の力を利用しようとした者、あるいは『虚』に取り込まれながらも自我を保とうとした存在について、断片的でほとんど理解不能な記述が見られることがある。彼女はそのような存在かもしれんな」
少女の苦悶に満ちた表情が、蓮の脳裏に焼き付いて離れない。彼女もまた、この街の歪んだ平和のための人柱のようなものなのだろうか?
「君が『鏡』を通じて彼女と接触し、さらに『虚』の本体の一部を垣間見たこと。これは極めて危険な兆候だ。君は…意図せずして、『虚』とその周辺の事象に『繋がって』しまった可能性がある」
「繋がった…?」
「ああ。単に知ってしまった、ということ以上の意味を持つ。『虚』はこちらの世界の『存在』に干渉することで力を増す、という説もある。特に自我や意識を持つ存在…人間は、格好の『錨(いかり)』、あるいは『餌』となり得るのだ。君があの匣の封印に干渉できたのも、君自身が、もしかしたら無自覚のうちに『虚』と何らかの親和性を持つ…あるいは引き寄せられる資質を持っていたからかもしれない」
如月の言葉は、蓮の存在そのものを揺るがす響きを持っていた。自分はただの古文書修復士見習いではなかったのか? なぜ自分がこんな途方もない事態の中心にいる?
「馬鹿な…俺が、そんな…」
「確証はない。だが警戒するに越したことはない。君はもう、ただの傍観者ではいられないのだ、蓮くん。自覚があろうとなかろうと、君は『境界』に足を踏み入れてしまった」
如月は深く息を吸い込み、何かを決意したように続けた。
「…私は、この図書館の古文書修復室の主であると同時に、代々この街の『裏』を守ってきた一族の末裔でもある。我々は、表向きは歴史的遺産の保護者として、しかしその実、公には語られぬ『虚』のような脅威からこの街を守るための知識と技術を密かに継承してきたのだ」
「師匠が…?」
「私の師も、そのまた師も、同じようにこの役目を担ってきた。その知識の中には、『虚の匣』のような封印具の扱い方、『虚』の力の兆候を見極める方法、そして…万が一、封印が破られた際の最後の手段についても記されている」
彼は、修復室の奥にある、普段は鍵がかけられ蓮も足を踏み入れたことのない小さな書庫スペースを指差した。
「本来なら、生涯知らずに過ごすべきだったかもしれん。だが事態は動き出してしまった。君がその中心にいるのなら、知る覚悟と備える覚悟が必要だ」
如月は立ち上がり、蓮に手を貸してゆっくりと体を起こさせた。まだ少し眩暈はするが、吐き気は治まっている。
「まずは、その『虚の残滓』を何とかせねばならん。あれを放置すれば、この空間そのものが歪み、さらに『虚』を引き寄せるやもしれん。我々の一族に伝わる、数少ない対抗手段の一つを試してみよう」
如月は例の小さな書庫に入ると、鍵のかかった古い桐(きり)の箪笥(たんす)から何かを取り出してきた。鈍い銀色の輝きを放つ、手のひらサイズの八角形の金属製の盤だった。表面には『虚の匣』の紋様とは異なるが、同様に複雑で幾何学的な模様が深く刻まれている。中央には奇妙な形の窪みがあった。
「これは『浄化の盤(じょうかのばん)』。古代の技術で作られ、限定的ながら『虚』のエネルギーを中和し消散させる力があるとされる。もっとも、成功するかはやってみねば分からんが」
彼はその盤を手に、慎重に『虚の残滓』へ近づいていく。蓮は固唾をのんで様子を見守った。
如月は『残滓』の縁(ふち)ぎりぎりで立ち止まり、深く呼吸を整えると、盤を両手で捧げ持つように構えた。そして低く、しかし明瞭な声で、古風な、意味の取れない短い言葉をいくつか唱え始めた。祈りとも命令ともつかない、不思議な響きだ。
すると、盤に刻まれた模様が淡い青白い光を発し始めた。光は徐々に強まり、盤全体が眩しく輝き出す。修復室の温度が急激に下がっていくのを蓮は肌で感じた。空気中の水分が凍りつき、きらきらと舞い落ちる。
如月は輝く盤を、ゆっくりと『虚の残滓』の上にかざした。盤の光と『残滓』の絶対的な暗黒が接触した瞬間。
「…………ッ!!」
声にならない呻きが漏れた。音はない。しかし、凄まじいエネルギーの衝突が起きているのが肌で感じられる。盤の光が激しく明滅し、まるで黒い穴に吸い込まれ、抵抗しているかのようだ。如月の額には汗が浮かび、盤を持つ手が微かに震えている。
(耐えろ…! 消えろ…!)
蓮は心の中で叫んでいた。もしこれが失敗したら、一体どうなるのか。
数秒か、あるいは数分か。時間の感覚が麻痺するような拮抗状態が続いた後、不意に盤の輝きが最高潮に達した。次の瞬間、眩い閃光と共に、盤の光と『虚の残滓』が同時に掻き消すように消え去った。
後には、元の何の変哲もない石の床と、床に落ちた銀色の盤、そして疲労困憊した様子で肩で息をする如月の姿だけが残されていた。盤の輝きは消え、中央の窪みには燃えカスのような微細な黒い粒子が溜まっていた。
「…はぁ…はぁ…。どうやら…うまくいった、らしい…」
如月は床に膝をつき、額の汗を手の甲で拭った。その顔には安堵と共に深い疲労の色が浮かんでいる。
「…あれだけの『残滓』を消すのに、盤の力のほとんどを使い果たしたようだ…。盤が再び力を蓄えるには長い時間が必要だろう。やはり状況は…我々の想像以上に切迫しているのかもしれん…」
彼は立ち上がり、盤を拾い上げると、溜まった黒い粒子を慎重に払い落とし、蓮に向き直った。
「蓮くん。君にはこれから多くのことを学んでもらわねばならん。まず、この『虚の匣』について。君が見た『鏡』と『少女』について。我々に残された時間は多くないのかもしれん」
如月の言葉が、蓮の胸に重く響いた。古文書修復士としての静かで平穏な日々はもう戻らない。自分はこの街の、そして世界の存亡に関わるかもしれない巨大な秘密と脅威の只中にいる。恐怖はあった。だがそれ以上に、あの鏡で見た少女の苦しげな姿と、得体の知れない『虚』への漠然とした、しかし確かな怒りのような感情が、蓮の心の中で静かに燃え始めていた。そして、生まれて初めて見た「自分自身の顔」の記憶。それは彼に新たな、そして困難な自己認識を迫っていた。自分は何者で、何をすべきなのか。
「…分かりました、師匠。俺に何ができるのか、まだ分かりません。でも…逃げるわけにはいかない気がします。あの少女を…放っておけない…」
「…そうか」
如月は蓮の答えに小さく、しかし力強く頷いた。その瞳には安堵と、新たな覚悟のような光が宿ったように見えた。
「では第一歩として、君自身の状態を知る必要がある。君が『虚』に繋がった影響が精神的なものだけなのか、それとも…何か別の変化が起きているのか」
如月は先ほど盤を取り出した書庫へ再び向かい、今度は小さな、手のひらに収まるくらいの滑らかな黒曜石のような石を取り出してきた。
「これは『感応石(かんのうせき)』。微弱な『虚』のエネルギーや、それに対する人間の精神的な反応を探知できる。古来、我々の一族が潜在的な適性を持つ者や『虚』の影響を受けた者を見出すために使ってきたものだ。これを、しばらく君に身につけていてもらう。石の色や温度、あるいは…君自身の感覚に何か変化が現れるかもしれん」
彼はその黒い石を蓮の手に渡し、革紐で首から下げられるようにしてくれた。石はひんやりとして、不思議と心が落ち着くような感覚がある。
「今日はもう休みなさい。館長には、体調不良で数日休むと私から伝えておく。無理は禁物だ。頭を整理し、身体を休めること。明日から本格的な『学習』を始める」
「はい…」
蓮は頷き、師に支えられながら図書館の片隅にある小さな仮眠室へと向かった。ベッドに横たわり、天井を見つめる。
(鏡のない街…。それは、虚ろな平和を守るための巨大な呪縛だったのか…)
あの黒い木箱。助けを求める少女。すべてを無に帰す『虚』。一族の秘密を背負う師匠。自分の身に起きた、あまりに非現実的な出来事。だが、首に下げた『感応石』の冷たい感触と、床に残された『虚の残滓』の記憶は、それが紛れもない現実だと告げていた。
目を閉じると、漆黒の鏡に映った自分の顔が浮かぶ。見慣れない、しかし紛れもない自分の顔。そして、その背後に現れた白い着物の少女の悲痛な表情。
(必ず…君を…)
誰に言うともなく、蓮は心の中で呟いた。
深い疲労と、これから始まるであろう未知の日々への不安、そして微かな決意を胸に、蓮はゆっくりと眠りに落ちていった。窓のない仮眠室の闇の中で、彼が首から下げた黒曜石の『感応石』が、ほんの一瞬、誰も気づかぬうちに微かに脈打つように明滅したのを、知る者は誰もいなかった。
朧月市の静かな夜は、まだ何も知らない住民たちを包み込み、いつも通りに更けていく。だが水面下では、永い間保たれてきた均衡が崩れ、古代の封印が揺らぎ始めていた。そして一人の青年が、鏡のない街の深淵へと、その第一歩を踏み出したのだ。
*
その夜、蓮は夢を見た。
果てしなく広がる完全な暗闇。上下左右の感覚もない。音も光もなく、ただ絶対的な「無」が広がっている。だが寒くはない。むしろ奇妙な温もり、あるいは生温さを感じた。巨大な何かの胎内にいるような、あるいは深い水の底に沈んでいるような感覚。
(ここは…どこだ…?)
意識はあるが、身体の感覚は希薄だ。まるで自分が純粋な意識体として、この虚無の空間を漂っているかのようだ。
しばらくすると、不意に遠く微かな光が見えた。頼りなく揺らめく小さな白い光点だ。蓮は吸い寄せられるように、その光に向かって意識を集中させた。
近づくにつれて光は人の形を帯び始める。白い、儚げな輪郭。あの鏡の中に現れた少女の姿によく似ている。だが表情は窺えない。すりガラス越しに見るように、像は曖昧だ。
少女(らしき光)は何かを伝えようとするのか、ゆっくりと手を伸ばしてきた。蓮もまた、無意識のうちに見えないはずの手を伸ばそうとする。
指先が触れ合うか触れ合わないかの、その瞬間。
ゾクリ、と全身が総毛立つような悪寒が走った。さっきまでの生温い虚無とは明らかに異なる、絶対的な冷気と底知れぬ悪意が背後から忍び寄ってくるのを感じた。
(来る…!)
振り向けない。だが、それが『虚』の一部、あるいはその先触れのようなものであることを、蓮は本能的に悟った。
少女の光が、恐怖に震えるように激しく揺らめいた。そして声にならない声が、再び蓮の脳内に響く。
『…早く…逃げ…て…』
『…「器(うつわ)」が…目覚める…前に…』
「器」…? 何のことだ?
蓮が問い返そうとした瞬間、背後から迫る冷気が奔流となって彼を飲み込んだ。視界も意識も再び急速に暗転していく。最後に感じたのは、少女の光が、風に吹き消される蝋燭のように儚く消えていく絶望的な感覚だった。
「はっ…!」
蓮は自らの短い悲鳴で目を覚ました。心臓が激しく鼓動し、全身に冷たい汗をかいている。仮眠室のベッドの上だった。窓のない部屋は依然として暗いが、ドアの隙間から廊下の微かな明かりが差し込んでいる。明け方にはまだ早いようだ。
(夢…? いや、あれは…)
首に下げた『感応石』を握りしめる。ひんやりとした石の感触が、少しだけ現実感を取り戻させてくれた。夢の中の感覚は、しかし、あまりに生々しく脳裏に焼き付いていた。虚無の空間。白い少女の光。背後から迫る『虚』の気配。
『「器」が目覚める前に』
あの言葉は一体どういう意味だったのか。「器」とは何のことなのか。まるで何か恐ろしいことが始まろうとしている、その予兆のようだった。
蓮はもう眠れそうになかった。ベッドから起き上がり、静かに仮眠室を出る。廊下を抜け、再びあの古文書修復室へと足を向けた。師匠の姿はまだない。おそらく自室で休んでいるのだろう。
修復室は昨日の出来事が嘘のように静まり返っていた。『虚の残滓』が消え去った床には何の痕跡もない。だが、部屋の隅に置かれた『虚の匣』は、依然として異様な存在感を放っていた。黒檀の木肌はより深く沈黙し、白金色の紋様は、眠る獣の呼吸のように、微かに、しかし確実に明滅しているように見えた。気のせいではない。昨日は静止していた紋様が、今はごく僅かに、脈打つようなリズムで輝きを放っている。
(…やはり、完全に元通りになったわけじゃないんだ…)
蓮は匣に近づくのを躊躇った。あの鏡が現れた時の衝撃と、その後に見た『虚』の恐怖がまだ身体に刻み込まれている。だが同時に、夢の中の少女の言葉が彼の背中を押していた。
(「器」とは何なのか? あの匣のことか? それとも…)
意を決して匣にゆっくりと手を伸ばしたが、触れる直前で指を止める。代わりに、首に下げた『感応石』を匣の表面に近づけてみた。
すると、石が微かに熱を帯び始めた。表面の色が漆黒から、吸い込まれるような深い藍色へと変化したのだ。
(これは…!)
如月師匠は言っていた。「石の色や温度、あるいは君自身の感覚に、何か変化が現れるかもしれない」と。これは明らかに何らかの反応を示している。匣から発せられる『虚』のエネルギー、あるいは匣に囚われている何かの存在に、石が共鳴しているのだ。
蓮はさらに石を匣に近づけようとした。その時。
カタン。
修復室の入り口のドアが開き、如月が立っていた。彼は蓮と、彼が手にしている『感応石』、そして『虚の匣』を交互に見やり、驚きと警戒の入り混じった表情を浮かべた。
「蓮くん…? 何をしている?」
「あ…師匠…おはようございます。すみません、目が覚めてしまって…少し、この匣が気になって…」
「感応石が…反応しているのか?」
如月はすぐに状況を察し、蓮のそばに駆け寄ってきた。藍色に変化し微熱を帯びている石を注意深く観察する。
「…やはり、君はこの匣と…そして、おそらくは『虚』と深く感応しているらしい。石がこれほど明確に反応するとは…。しかも、ただの黒や灰色ではなく、藍色…。これは単なる『虚』の力だけでないことを示している。何か…別の意志、あるいはエネルギーが混在している証拠だ」
彼は厳しい表情で蓮を見つめた。
「昨夜、何か変わったことはあったかね? 夢を見るとか、奇妙な感覚があったとか」
「…はい。夢を見ました。真っ暗な場所で、あの鏡の中にいた少女のような光に会って…何かを伝えようとしていました。『器が目覚める前に逃げて』と…そして、背後から『虚』の気配が迫ってきて…」
蓮が話すにつれて如月の表情はますます険しくなり、しまいには蒼白になっていった。
「『器』…と、言ったか…?」
「はい。それが何なのかは分かりませんが…」
「…まずい…! それは、我々の一族に伝わる伝承の中でも、最悪の事態を示唆する言葉だ…!」
如月は、まるで足元の地面が崩れ落ちるかのように動揺した様子を見せた。
「師匠、一体どういう意味なんですか、『器』って?」
「『虚の匣』は漏れ出した『虚』を封じるためのものだと言ったな? だが、それは完全な消滅を意味しない。匣の中に蓄積された『虚』のエネルギーは、ある限界点を超えると飽和し、変質し始めるという。その変質したエネルギーが、自らを安定させこの世界に顕現するための『依り代(よりしろ)』…すなわち『器』を求めるのだ!」
彼の声は恐怖に震えていた。
「そして、最も適した『器』とは、多くの場合…『虚』に触れ、感応する資質を持つ人間なのだ…! 『虚』はその人間の意識や生命力を喰らい、それを核としてこの世界に具現化しようとする…! いわば『虚』の降臨のための生贄(いけにえ)だ…!」
蓮は言葉を失った。『虚』の器? 人間が? それが、夢の中の少女が警告していたことなのか? そして、感応石が自分に強く反応しているという事実は…まさか…。
「蓮くん…君が、その『器』として…選ばれてしまう、可能性がある…!」