朝食をとった後、蒼は本当に紅と一緒に風呂に入った。
ヒノキの浴槽は床を掘り込んで作ってある。
洗い場もヒノキの板が敷き詰められていて、香りだけでも癒される。
浴槽も洗い場も、全体的に広くて、清潔感が漂っていた。
(やっぱり理研の共同浴場とは違うよな。基本、シャワールームだったし)
理研ではシャワーや風呂は、清潔を保つ意味合いしかなかった。
実験の前後や売られる前に入念に洗われる程度で、普段は毎日入る習慣もなかった。
「風呂って気持ちいいんだなぁって、ここに来て初めて知ったよ、俺」
先に湯船に浸かっていた芯がしみじみ話す。
「そうだよね。理研じゃ三日に一回くらいしか入らなかったし。僕もお風呂、好きになれそう」
紅が蒼の頭をもしゃもしゃ洗って、湯桶でざばっとお湯をかけた。
「ニコもお風呂好きぃ。紅様と入るのが好きぃ」
湯船の中でニコが紅に向かいニコニコしている。
「俺も、ニコや皆と風呂に入るのが好きだよ」
今度は蒼の体を洗いながら、紅がニコに笑いかけた。
「あの、自分で洗えますから、大丈夫ですよ」
おずおずと申し出るも、紅に首を振られてしまった。
「本当は最初に俺が洗ってあげてるんだけど、蒼は初回を逃したからね」
確かに最初に風呂に入った時は自分で洗った。
「皆、洗ってもらったの?」
湯船に浸かる芯とニコを振り返る。
二人が普通に頷いた。
「ニコも洗ってもらったよ。紅様、今でも洗ってくれるよ」
「みんなで一緒に風呂に入る機会も多いぜ、今みたいに」
確かに今は朝で、全員で風呂に入るタイミングでもないのだが、何故か芯とニコも一緒に入っている。
「お風呂って気持ちいいから、一日に何回入ってもいいよね。朝風呂って更に気持ちいいから、好きなんだ」
それはきっと紅の趣味なんだろうが。
付き合っているニコと芯は気を遣っているのだろうか。
「紅様が入る時はニコも入る!」
「ニコは長湯すると湯あたりするから、無理したらダメだよ」
「は~い」
顔を火照らせて、ニコが良いお返事をしている。
「ニコも理研から買っ……、来たんですか? 僕はあまり覚えがないのですが」
関わりがなかった被験体は多いし、覚えている方が少ない。
歳が大きく離れれば、関わりもそれだけ薄くなる。
だが、ニコくらいの歳なら、同じ施設にいたはずだ。
芯に見覚えがあったように、少しくらいは覚えがあっても不思議ではないのだが。
「ニコは別の取引先から買ったんだ。理研と全くの無関係って訳でもないんだけどね。ニコは色と双子でね。大体、一月くらい前にここに来たんだ」
一月前なら、そろそろ溶けるんだろう。
色と双子なら一緒に来たのだろうし、術の浸潤が同じくらいに見える。
(理研以外にも取引先があるんだな。無関係じゃないなら、同じ現世の取引先なのかな)
そこまで考えて、思考を止めた。
紅が何処とどんなふうに取引をしているかなど、知っても意味がない。
「また増えるんですか?」
芯が質問を投げた。
「んー……、しばらくは、無いかな」
湯桶の湯を蒼の体に掛け流しながら、紅が答えた。
「……そうですか」
静かに答えた芯を、ちらりと窺う。
芯が考えるような難しい顔で押し黙っていた。
「蒼、湯船に浸かっていいよ」
肩を叩いて促されて、蒼は湯に浸かった。
たっぷりの湯が気持ち良い。足を延ばせる浴槽なんて、初めてで感動した。
「さて、ニコはそろそろ上がろうか」
「は~い」
紅がニコを抱き上げて湯から引き上げた。
「芯、上がったら俺の部屋においで。ゆっくり遊ぼう」
「はい……」
芯の返事を確かめて、紅がニコを連れて出て行った。
湯船の奥で芯の背中を眺めていた蒼は、思い切って声をかけた。
「芯、あのさ……」
「基本は三人なんだよ、紅様の餌。三人目を喰う前に、追加が買われるんだ」
その話は納得できた。
色が溶けそうだったから、蒼が買われたんだろう。
「ニコはそろそろ溶ける。本当ならもう一人、買われるはずなんだ」
芯が蒼を振り返った。
「やっぱり、霊元がある被験体って特別なんだな。蒼は普通の個体三人分の価値らしぜ。蒼一人で、紅様は腹いっぱいになれるんだ」
そんな話は初めて聞いた。
初日に紅が「高い買い物」とは言っていたが、具体的な値段なんか知らない。
「毎晩、同じ布団に寝かせて喰いたいくらい、価値があるんだ」
「それは、たまたまだよ。僕が霊力の放出するのが初めてで、寝るっていうか気を失っただけというか」
毎晩一緒に寝る約束はさっきしたが、昨日までは只の偶然だ。
霊力を放出して寝続けていたから、紅も蒼を動かせなかっただけだろうと思う。
「ニコが溶けても増やさないのは、蒼の霊力があれば足りるからだろ。俺も必要なくなる。紅様に愛してもらえなくなる!」
「芯、何言って……」
立ち上がった拍子に芯の頭の上の手拭が落ちた。
芯の頭に、耳が生えていた。
「芯……、耳……」
「蒼が来てから紅様は蒼にばかり構う。俺だって紅様が好きなのに。霊力がない只の人間は、もういらないんだ!」
思わず立ち上がって、芯の腕を掴んだ。
「違うよ、芯。さっきだって、風呂から上がったら部屋に来いって、芯を呼んでただろ。ていうか、そうじゃなくて、えっと、えっと」
たったの二日前まで逃げる企てをしていた芯に何があったのか、不安になった。
耳が生えているから、紅の妖術が浸透してきているのだろう。
芯が来てから十日以上は経っているはずだから、不思議はないのかもしれない。
だが、あまりの変わりように驚いてしまった。
「芯は、紅様を愛してる、の? 喰われたいって、思ってるの?」
「何、言ってんだ? 当然だろ。俺は紅様の餌なんだから。愛してほしいし、早く一つに溶けてぇよ」
芯の腕を掴む蒼の手が震えた。
(きっとこれでいい。喰われる現実に疑問とか持たないで、愛されて、気持ちよく喰われたら、きっと幸せなんだ。僕も、そう思ってた。でも、だけど)
保輔の話を楽しそうに語っていた芯の気持ちは、どこに行ってしまったんだろう。
諦めたくないと話していたあの気持ちは、消えてなくなってしまったんだろうか。
あれはきっと芯の大事な想いで信念だったはずだ。
「芯は、それで、いいの? 大事なコト、忘れてないの? 芯は、それで、幸せって思えるの?」
声が震えた。
怪訝な顔をした芯が蒼の顔を覗き込む。
「蒼? 顔色悪ぃけど、大丈夫か? 怒鳴って悪かったよ。俺もニコも紅様に構ってほしいんだよ。だからお前が羨ましいっていうかさ。嫉妬したんだ」
蒼は首を振った。
芯の腕を強く掴む。
「芯は、保輔を、忘れちゃったの?」
芯の腕が、ぴくんと小さく跳ねた気がした。
「誰だよ、それ。俺らにとって大事なのは、紅様だけだろ。俺らは紅様と一つになるために、生きてんだぞ」
信じられない言葉が返ってきて、蒼は顔を上げられなかった。
芯の腕を掴む蒼の手から力が抜ける。
「俺、そろそろ行くわ。紅様、待たせたくねぇし。よくわかんねぇけど、蒼はちゃんと温まってから出て来いよ」
慰めるように肩を叩いて、芯が風呂を出て行った。
蒼は、力なく湯の中に蹲った。
「紅様の妖術って、あんなに、あんなに……」
人を変えてしまうのだと思った。
あれ程、嬉しそうに語っていた友人まで忘れてしまう。
頭の中が紅の存在だけで埋め尽くされる。
どうしようもなく怖くなった。
(喰われるなら、その方が楽だ。でも芯は、僕みたいに喰われたいと思ってたわけじゃない。やりたいこともあって、会いたい人もいるんだ)
幸せに生きたいと語っていた時の芯の笑顔を思い出す。
(このまま喰われて良いわけない。絶対に、良いわけないんだ)
何故か、涙が湯船に落ちた。
今、自分が感じている感情が、恐怖なのか怒りなのか悲しみなのか、蒼にもわからなかった。