結局、蒼が起きたのは次の日の朝だった。
同じように紅の腕の中で目覚めて、紅が教えてくれた。
「蒼は自分の霊力を体の外に出したのが、初めてだったんじゃないかな。慣れないと放出するだけで人は相当に疲れるんだよ。目が覚めて良かった」
紅が強く蒼を抱きすくめる。
「起きない人もいるんですか?」
「いるよ。寝続けてそのまま死んじゃう人もいる。蒼は大丈夫だろうと思ってたけど、なかなか起きないから、少しだけ不安になったよ」
そんな話は初めて聞いた。
そもそも自分の霊元も霊力についても、詳しい話を理研にされていないから、知らなくて当然だ。
使い物にならない被験体の霊力なんか、理研にとってはどうでもいいんだろう。
(寝たままいつの間にか死ぬのも、辛くはなさそう。それも、いいかもしれない)
ちらりと、紅を窺う。
(僕が死んだら、紅様は悲しいだろうか)
何気なく浮かんだ疑問を、自分で否定した。
(そんな訳ないか。僕は喰うために買われた餌なんだから。紅様にとってはいずれ失う命だ。でも……)
眠る前にしていた話を思い出す。
(紅様は、どれくらい長く僕を喰うつもりなんだろう。聞きたいけど、ちょっと怖い)
命の期限を知るのは、怖い。
そう考えて、驚いた。
(僕、死ぬの怖くなった、のかな。紅様の元で、ちょっと良い暮らしをさせてもらって、それが続くかもって思っただけで、死にたくなくなったのかな)
芯が話していたのは、こういう気持ちなのかもしれない。
「蒼、動けそうなら、お風呂入ろうか。それとも、ご飯が先が良い?」
確かに腹は減っている。
丸一日近く寝ていたのだから、何か食べたい。
ちらりと紅の顔を窺う。
ニコニコと蒼を眺める顔は、風呂に入れたそうに見えた。
「お風呂に、します」
伝えた途端に、蒼の腹が豪快に鳴った。
紅が蒼の頬を、むにっと摘まんだ。
「お腹が空いたなら、そう言いなさい。理研からくる子は皆、俺の顔色を窺って言葉を選ぶけど、蒼は特に酷いね。どうしたら直るかな」
紅が困った顔で首を捻っている。
そうは言われても、そういう生き方しか知らないのだから、蒼自身もどう変えればいいか、わからない。
命令に従順で逆らわず、相手が望む通りの行動をとっていれば、辛い思いはしなくて済んだ。
けれど、紅はそういう蒼を望んではいないらしい。
「命令してくれたら、その通りにします」
「ダメだよ。何の解決にもなってないよ」
懸命に言葉にした提案は、あっさりと却下された。
考えあぐねていた紅が、ぱっと思い付いた顔をした。
「毎日一つ、自分の望みとか願いを俺に教えて。蒼の本当の気持ちが知りたい」
「僕の、本当の、気持ち?」
あまりに意外な言葉だったので、理解できずに繰り返してしまった。
「昨日の万華鏡、覚えてる?」
蒼は頷いた。
紅が蒼にくれると言った万華鏡は、枕元に置いてある。
「色んな色があったけど、蒼は赤い色を選んだよね? どうして? 他の色に変えてもいいよって言ったけど、変えなかったよね。理由は?」
理由とか、聞かれても困る。
箱の中に沢山入っていた万華鏡は、赤とか青とか緑とか黄色とか、筒の色が沢山あった。
一番上の、取りやすい位置にあった筒を選んだだけだ。
(でも、変えなかった理由は……)
「赤が、綺麗だったから。紅様の瞳の色と同じだったから、です」
覗き込んだ万華鏡の中は沢山の宝石がくるくる回って、その一つ一つが紅の瞳のようだと思った。
初めて見た時も、紅の赤い瞳を、とても綺麗だと思ったから。
恥ずかしくて、顔が自然と下がる。
頬が熱い。きっと赤い顔をしていると思うと、顔を上げられない。
「蒼……」
紅が呟いて、伸びた腕が蒼を抱き寄せた。
「やっぱり聞いて良かった。蒼も少しは俺を、好きになってくれてる?」
蒼は小さく頷いた。
言葉にするのは恥ずかしい。
それに、この気持ちが紅が望む「好き」なのかも、わからない。
親切にしてくれる妖狐に情が移っているだけなのかもしれない。
(だって、紅様のこと、何も知らない。まだちょっとしか、どんな性格かとか、わからない)
芯に聞いた話と、この四日間で自分が見て聞いた紅だけだ。
(もっとたくさん知らないと、わからないから、知りたい。紅様が、どんな妖狐なのか)
好きになれるかどうかは、わからないけど、知りたいとは思った。
「これからも俺に、蒼の本当の気持ち、沢山教えてね。蒼をもっと知りたいんだ」
自分が思っていたのと同じ言葉を言われて、ドキリとした。
(紅様も、僕を知りたいって、思ってくれてるんだ。知りたいって、相手に興味がないと、湧かない感情なんだな)
紅が蒼に興味を持ってくれているのだと、改めて理解した。
「……誰かに、知りたいって、言ってもらったのは、初めてです。嬉しい、です。僕も、紅様を、今より、知りたいと思います」
蒼という人間に興味を持ってくれたのは紅が初めてだ。
(いや、前にも一人、いた。芯が教えてくれた、保輔。彼は、ちゃんと僕に声をかけてくれたのに)
蒼という人間を見て、蒼という人間に声をかけてくれた、唯一の人だったかもしれない。
あの頃の自分は、素直に受け入れる気になれなかった。
(でも今は、紅様に知りたいって言われて、素直に嬉しかった)
紅が蒼に頬ずりした。
スリスリしすぎて、火が吹くんじゃないかと思うくらい、スリスリしている。
「紅様……?」
抱く腕もどんどん強くなって、いつの間にか紅の膝の上に乗っていた。
「可愛い、蒼。可愛いよ。今すぐ食べちゃいたいくらい、可愛い」
紅が言う「食べる」は、本当に喰う意味合いだから、洒落にならない。
この空腹で喰われたら、流石に苦しいんじゃないかと思う。
「俺を知りたいと思ってくれて、嬉しい。蒼には話したいコトが、たくさんあるんだ。だけど、ゆっくり順を追って話すね。まずは、蒼のご飯にしよう」
蒼を抱いて、紅が立ち上がる。
「え? 紅様。さすがに、このまま部屋を出るのは。着替えたりしないと」
いくら紅の私宅とはいえ、開けた寝間着でうろつく訳にはいかない。
「うん、着替えは俺がしてあげる。ご飯食べたら、お風呂でピカピカにしてあげるからね」
当然のように隣の間に運ばれる。
「お風呂、一緒に入るんですか?」
「うん、入る。蒼が可愛いから、今夜から毎晩、一緒に寝るって決めた」
「……え?」
それは毎晩喰われるという話だろうか。
紅の言葉なら逆らう訳にはいかないが。
「一緒にいる時間が長い方がお互いを知れると思ったんだけど。嫌なら嫌って、言っていいよ」
腕の中を見下ろす紅の顔が寂しそうに見える。
「いえ、紅様が、そう仰るなら……」
言いかけて言葉を止めた。
きっとそれは紅が望む返事ではない。
(毎晩一緒に寝る、別に嫌じゃない。喰われたって気持ちいいだけだし、きっと紅様は僕が死ぬほどは喰わないだろうし、まだ、今は)
死んだとしても気持ち良ければいいのだから。
何より、紅の腕の中は心地が良くで安眠できる。
「紅様は温かいから、一緒に寝たいです」
本音を言葉にするのが、これほど恥ずかしくて勇気がいるなんて、知らなかった。
勝手に顔は熱くなるし、心臓もバクバクする。
「うん、うん。一緒に寝よう。そうしよう」
蒼の額に口付けて、紅が着替えの間に入った。
とても嬉しそうにしている紅の顔を見上げながら、蒼はまるで良い事をしたような気持になっていた。