「…………俺なんで自殺なんてしたんだっけ」
「雪渚……?まさかお前……」
「せつくん……」
――ダメだ。大学時代に出逢った
「…………思い出せない」
「記憶喪失、ということか……」
「せつくん……そんな……」
天音が俺の背を抱き締める腕の力が、少し抜けたように感じられた。それでも、天音は優しく抱き締めてくれていた。
「雪渚、そもそも『一度死んだ人間が八十五年越しに蘇生する』なんて事例がまずない。超記憶力を持つお前が、見聞きしたもの――それもあれほどお前を傷付けた過去を忘れるなんて絶対に有り得ない。自殺を図るほどの辛い記憶――お前自身が無意識に、記憶に
「同感だ。恐らくそうなんだろうな……」
「とは言え雪渚なら
「――せつくん、
「
「そう……ですか……」
俺は、俺の背に抱きつく天音の白いウルフカットの髪を
「天音、大丈夫だよ。もう俺は天音を置いて何処かに行ったりしない。さっきも言ったろ。俺は生き抜いて
「そっか……。そうですよね、せつくん!うん、うん!」
天音は嬉しそうに笑顔を取り戻すと再び、俺の背中を強く抱き締めた。俺は一二三へと視線を戻し、いつの間にか立ち上がっていた一二三に告げる。
「一二三。八十五年間、世話になったな。この礼は必ず」
「なに、親友だろ。気にするな。……雪渚、お前にこれを」
そう言って一二三が俺に手渡したのは、目測で縦十六センチ、横六・五センチ程度のガラスの板だった。
「一二三、これは……?」
「ガラス板のように見えるがそうじゃない。俺がCEOを務める企業――弊社で開発した、この新世界におけるスマートフォンだ。画面に触れてみてくれ」
――そうか。俺が使っていたスマートフォンは、自殺したときに
「ほう。こうか……?」
一二三に
「その中央、『SSNS』と記載されたアプリアイコンを開いてくれ」
一二三の指示に従ってそのアイコンをタップすると、「夏瀬 雪渚」、その下に「Natsuse Setsuna」と記載されたプロフィール画面が表示された。
画面下部に表示されているメニューバー、その中の、デフォルメされた人と人が握手をしているイラスト付きの「フレンド」のアイコンをタップすると、プロフィール画面が切り替わり、「フレンド」という記載と共に、
「
「お前すごい開発するのな……」
「新世界じゃ大抵の人間はこのスマートフォンと
「至れり尽くせりだな……。ありがとう一二三」
「ああ」
「――五六先生!ここにいらっしゃいましたか!山本さんが呼んでますよ!」
突然病室に飛び込んできた看護師の女性が、一二三を見つけるやいなや声を掛ける。
「おっと、すまない。直ぐに行くと伝えてくれ」
「急いでくださいね!」
看護師は一二三の言葉を受け、ピシャリ、と扉を閉じた。
「悪いな一二三。時間取らせた。じゃあ……行くよ」
「天ヶ羽さんもいることだし、大丈夫そうだな。今度はゆっくり二人で酒でも
「ああ」
――こうして、俺の八十五年間にも及ぶ入院生活は幕を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
天音が用意していた、俺が当時好んで着ていた白黒の豹柄の柄シャツと黒のスキニーパンツを着て、真新しいスニーカーを履いて、その大きな病院の自動ドアを出ると、眼前の広い駐車場の奥に、都心の街並みが広がっていた。天音は俺の左隣でベタベタと腕を
「えへへー!せつくん、取り
「天音……気持ちは嬉しいんだけどちょっと動き辛いから
「え~、関係ないです~!」
背後に
――副業で総合病院の開業医。いねえってこんなやつ。
そう脳内でツッコミを入れた瞬間、「何か」が俺の右の
「――せつくん!」
目に映るのは、やさぐれた雰囲気の、長い黒髪の女だった。頭には二本の黄色い角が生えており、
彼女は機動性を重視しているのか、露出の多い、黒を基調とした複数のパーツで出来た軽装の鎧を身に着けている。夕暮れの光が、彼女の姿を劇的に照らし出していた。
「アタイの蹴りを受け止めるたァ……やるじゃァねェか……!」
彼女の両手には鋭く光る黒い
「天音、大丈夫だ。危ないから離れててくれ」
「せつくん……かしこまりました」
――天音は回復に特化した異能。こんな時代ならば最低限の護身術程度は身に付けている可能性もあるが、戦闘能力はないと判断しても良いだろう。天音は俺が守らねば……。
天音は心配そうな表情を浮かべながら、それでも従順に、俺たちから距離を取った。その広い駐車場に停められた乗用車のボンネット、
「……お前、さっき病室を外から遠巻きに覗いてた奴だな」
「ほォ、気付いてやがったかァ……!」
――そう、この黒髪ロングの女は先刻、俺が二階の病室で天音とニュースを観ていた際、窓の外の木の上からその様子を遠巻きに観察していたのだ。
「何の用だ?」
「なァに、殺すつもりはねェよ……。持ち金置いてってくれりゃァいい」
「
「はッ!嘘
――天音のことだろう。
「アタイはそこのメイド女がお前に会いに病院に通い詰めてるのをこの数日見ててよォ!お前が出てくるのを待ってたんだァ!柄シャツなんか着やがってよォ、狙ってくれって言ってるようなもんだろォがァ!」
「病み上がりなんだけどな……」
――言っても聞く耳持たないな。まだ俺の神級異能――〈
「仕方ないな、金が欲しけりゃ俺を倒してみな」
「いいぜェ!
女がそう気合いを入れると、女の身体がメキメキと悲鳴を上げ始めた。その音は、人体の限界を超えようとする
「――うおおおおおおおおおおおおおおおおおおォォォォ!」
すると、女の肌に鱗のようなものが現れた。その鱗は夕陽を受けて不気味な
更に女の下半身には鱗を
「伸ばした爪だけじゃ足りねェよなァ!アタイの蹴りを受け止めたお前に敬意を
「相手してやる、は俺の台詞だろ……」
――形容するならば
「お前も運が悪ィ奴だァ……!残念だったなァ。アタイの異能は上級異能。〈
――上級異能――世界人口の上位十パーセントが持つ異能。この女……自ら武器であるハズの異能をバラした時点で賢くはなさそうだが、目に見えないほどのスピードで俺の頬に傷をつけた身体能力。個人の才能に応じた階級の異能が顕現する、という事実を踏まえれば、この女が上級異能を持つというのも
「上級異能……」
――運動神経は俺とほぼ互角か。チュートリアル戦にしては強敵な気もするが……。
「――っしゃァ!来ねェンならこっちから行くぞォ!」
女は、そう息巻くとその場から「消えた」。すると、俺の
「――『
その直後、続け様に俺の柄シャツごと、俺の右肩が切り裂かれる。引き裂かれた肩から、血が俺の白黒の豹柄の柄シャツに、じわりと
「――せつくん!」
――ギリシャ神話の「法と掟」の女神、テミスの名を冠する神級異能――〈
「――『
続け様に次々と引き裂かれる俺の長袖の柄シャツ。全身ズタズタに引き裂かれ、全身の傷跡から血が滲んでいる。そんな猛攻の嵐の中、自分でも不思議なことに、俺は至って冷静だった。
――自殺したときに比べれば、全然痛くないな。
「――おらおらァ!ビビって反撃もしねェのかァ!?」
「お前な、そんなに金が欲しけりゃ単発の倉庫バイトでもしてろ。お前のその体力があるなら労基ガン無視の三十連勤も余裕だろ」
「――るせェ!真面目に働いてちゃァキリがねェんだよ!『
女は目にも止まらぬ速さで、次々と俺の身体を傷付ける。まるで妖怪・
――さて、そう考えると、〈
「――ずっと突っ立ったままで!何がしてェンだてめェ!」
「せつくん……っ!」
「ほら見ろォ!お前の使用人のメイドも心配そうにしてんじゃァねェかァ!」
「……あの、誤解していませんか?私が心配しているのはご主人様ではありませんよ」
――まあ当然だが殺す気はない。軽く試してみるか。
「――心配なのは
「あァ!?」
――上級異能であることに誇りを持っているようだが悪いな、俺は神級異能だ。
『掟:衣服に損傷を与えた者は、全身が
そう脳内で思考した瞬間、俺の身体はまた新たな傷を創る。すると
「――なッ!?」
俺はアスファルトの地面に
「勝負あったな」
「……くっそ……ッ!動……けねェ……!」
夕陽がその女の黒い軽装の鎧を温かく照らす。それは、この勝負の決着を意味していた。