「十年前、俺の妹、美咲は魔法に憧れていた」
拓人さんは静かに語り始めた。
「美咲は当時13歳。俺は16歳だった」
わたしと店長も静かに耳を傾けた。拓人さんがこのように自分の過去を語るのは初めてだった。彼の表情には懐かしさと痛みが混ざり合っていた。
「美咲は不思議なものが大好きで、よく『お兄ちゃん、魔法って本当にあると思う?』と聞いてきた」
拓人さんの目に優しい懐かしさが見えた。
「優斗くん並みの好奇心だろう?でも、その頃の俺は茜ちゃんみたいに『そんなわけないだろ』と笑っていたんだ」
拓人さんは一度言葉を切り、窓の外を見つめた。春の夜空には星が瞬き始めていた。彼の横顔が、その星明かりに浮かび上がっている。魔法の光だけで満たされた店内では、優しく微笑む拓人さんの横顔にも陰りが落ち、その複雑な心境を表しているようだった。
「ある日、美咲は古い本屋で一冊の本を見つけた。何を根拠に判断したんだか、魔法の呪文書だと言って喜んでいた」
「それは……本物だったの?」
わたしが小さな声で尋ねた。魔法の書物が人間界に流出することは稀だが、時々起こる。特に管理体制が整う前の古い時代には。
「ああ」と答える拓人さんの声が僅かに震えた。
「今思えば、それは本物の初級魔法書だった。どうやって人間界に紛れ込んだのかは分からないが……」
わたしは胸が痛んだ。魔法の本が無許可のままに人間界に出回れば、大きな悲劇が起きることもある。だからこそ、魔法評議会は厳格な管理を始めたのだ。わたしの心情を知ってか知らずか、拓人さんは続けた。
「美咲はその本に書かれた魔法を試してみたいと言った。俺は単なる遊びだと思って付き合ってやることにした」
彼の表情が暗くなった。過去の記憶が鮮明によみがえっているのだろう。
「ある晩、美咲は本に書かれていた『光の魔法』を試そうとした。俺たちが二人きりで家にいて留守番をしている時だった……」
拓人さんの言葉が途切れた。彼の瞳には遠い記憶が映っているようだった。過去の痛みを再び思い出すのは辛いはずだ。わたしは彼の苦しみを感じ取り、思わず手を伸ばしかけたが手を出す勇気はなく、代わりに可能な限り優しく声をかけた。
「無理しなくていいんだよ?」
「いや、話さなきゃならない」
拓人さんはすでに決意を固めているようだ。声はだんだん緊張の色を帯びてくる。
「美咲が呪文を唱えると、本当に光が現れた。小さな、星のような光だった」
「ということは、美咲には才能があったんじゃな」
店長が静かに言った。
「そうだったんだろう。成功したことに喜ぶと同時に、あまりにも驚いた美咲は興奮した状態のままで、もっと大きな光を作ろうとした。でも……彼女にはまだ魔力を上手くコントロールする力がなかった。考えてみれば当然だ。魔法や魔力をコントロールする方法なんか習ったこともないし、独学で何とかなるものでもなかった。まぐれで成功したもんだから、興奮してそういう自分たちの状況についてはすっかり頭から抜けてたんだ」
わたしは息を呑んだ。初心者が魔力のコントロールを失うことがどれほど危険か、魔法使いであるわたしにはよく理解できる。魔法は美しいものだが、同時に危険も伴う。特に正しい指導なしには。
拓人さんの声が一層低くなった。
「美咲がさらに魔力か何かを込めようとした瞬間、突然、光が爆発的に広がり、部屋中を包み込んだ。俺は反射的に目を閉じて顔を覆った。しかし、光が収まり、こわごわと目を開けた時には美咲はすでに……」
わたしが手を口元に当てた。
「まさか……」
「そう、きっと美咲は光に飲み込まれたんだ」
拓人さんの目には涙が浮かんでいた。
「光が消えた時、彼女の姿はなかった。思いつく限り、美咲が行きそうな場所を探してみても見つからなかった。俺は後悔と途方に暮れた……。なぜ止めなかったんだろう。それからは自分を責める毎日だったよ」
「ふむ、魔法空間もしくは次元の狭間に迷い込んだのか……」
店長が重々しく言った。
「きっと、そうだったんだろう。ただその後も諦めることができずに、両親も俺も必死に美咲を探し続けた。失踪届を出して警察にも動いてもらったが、当然見つからなかった。そしてついに、美咲の件は失踪事件として迷宮入りしてしまった」
「それで魔法を嫌うというか、警戒するようになったんだね」
わたしは何とか言葉を絞り出した。彼の気持ちが痛いほど理解できた。大切な人を魔法によって失うことがどれほど辛いことか。
拓人さんが拳を握りしめて答えた。
「ああそうだ。しかし、魔法を嫌ってばかりはいられない。美咲を取り戻すには魔法の知識が必要だと気づいたんだ。だから魔法使いでもないのに魔法についていろいろと調べ始めたんだ」
「そうやって魔法界と繋がりを持ったのかぁ」
わたしが理解したように呟いた。彼のこれまでの行動が、少しずつ筋道を立てて理解できるようになってきた。わたしの声が拓人さんに届いたかどうか分からないが、そのまま拓人さんは続けた。
「最初は魔法使いたちに助けを求めた。でも、誰も本気で取り合ってくれなかった。やつら、『魔法空間に迷い込んだ人間を取り戻すのは不可能だ』と口を揃えて言うだけで、協力らしい協力をしてくれることも無かった」
「でも諦めなかったんだね」
わたしの目にも涙が光っていた。拓人さんの妹への愛情と、彼女を取り戻そうという決意の強さに心を打たれた。拓人さんが頷き、わたしの方を向いて言った。
「そして二年前、千秋に出会った」
わたしは懐かしむように微笑んだ。拓人さんとの出会いは、偶然のようで必然だったのかもしれない。
「あの時、確か拓人さんは魔法の物資を運ぶバイトを始めたばかりだったよね」
「そう。最初は単に魔法の知識を得るための手段だったんだ。でも千秋と出会って……」
拓人さんも僅かに笑みを浮かべた。
「私が拓人さんの話を信じて、確か美咲ちゃんを探す手伝いをするって約束したんだよね」
彼の話を最初に聞いた時、わたしは即座に彼を助けると決めた。魔法で傷ついた人を、魔法で救いたかった。それが魔法使いとしてのわたしの信念だった。
拓人さんは懐かしむように目を細めて頷いた。
「それまで誰も本気にしてくれなかったのに、千秋だけは違ったんだ」
「美咲ちゃんの居場所、まだ分からないの?」
昔の話を出されて何だかむずがゆくなってきたわたしは、話題を変えるように尋ねた。
「手掛かりはある。美咲が使った光の魔法は、特定の魔法空間と繋がっていたはずだ。今でも美咲の部屋に行くと、時々、美咲の気配を感じることがある」
拓人さんの答えに応じて、店長が思案顔で言った。
「そうか……。光の魔法は次元の境界に干渉することがある。彼女はある種の狭間の空間にいるのかもしれんな」
わたしは静かに考え込んだ。光の魔法と次元の境界。そういえば最近、境界の揺らぎについて報告が増えていた。それと美咲ちゃんの声のこととは関係があるのだろうか。
「だから俺はこの仕事を続けている。いつか必ず美咲を取り戻すんだ」
わたしの思考を破るような強い言葉で、拓人さんが不退転の決意を込めて言った。ハッとしたわたしはそんな拓人さんの肩に手を置いた。その肩は堅く酷く緊張して強張っていた。
「必ず見つけようね。私も全力で協力するから!」
これは単なる慰めの言葉ではなく、魔法使いとしての約束だった。拓人さんはわたしの手を見つめ、感謝の表情を浮かべた。
「ありがとう」
彼の表情は、わたしが彼と出会って以来、初めて見る柔らかさだった。
「で、なぜ今、あの高校生たちに話そうと思ったんだ?」
店長が尋ねた。彼の目は鋭く、しかし優しかった。
「あの二人、特に優斗の目に魔法への憧れを見たんだ。美咲と同じ目をしていた。だから、魔法の危険性をきちんと知っておいてほしいと思った。漠然と覚えるのと、実体験や実例を通して危険性を本当の意味で理解することは違う。頭では分かっていても、行動が伴わないと意味が無いんだ。それら両者の違いを理解し、行動につながるように魔法の危険性を胸に刻み込んでほしいと思っている」
そう力強く答えた拓人さんの気持ちが、わたしには痛いほど分かった。美咲ちゃんと同じ悲劇を繰り返さないようにという彼の思いやり。それは過去の後悔からきているのだろう。それを聞いてわたしは頷いた。
「分かった。明日、二人が来たら、話してみることにしよう。あの二人なら、きっと真面目に真剣に聞いてくれるよ」
夜が更けていく中、わたし達大人と1匹はそれぞれの思いを胸に、静かに時を過ごした。窓の外では、星が静かに輝いていた。わたしは拓人さんの話を聞いて、彼のこれまでの態度の理由が理解できた。そして、彼が魔法を嫌いながらも魔法の仕事を続ける矛盾の理由も。全ては彼の妹への愛から来ていたのだ。
夜空を見上げながら、わたしは心に誓った。彼の妹を必ず見つけ出すと。それが魔法使いとしてのわたしにできること。魔法で傷ついた心を、魔法で癒すために。