「何とか無事に帰ってきたな。ご苦労さんじゃった」
事務所に戻ると、店長が私たちを出迎え、ソファの背もたれから労いの言葉をかけてくれた。彼は私たちの疲れた表情を一瞥するだけで、何かあったことを察したようだった。黄色い目が私たちを観察している。
「様子を見るに、何かあったようじゃな」
私は起きたことを全て報告した。影魔法使いの出現、エリアス先生の真実の鏡、そして境界を崩そうとする彼らの計画について。店長は真剣な表情で聞き入っていた。
「影魔法使いか……」
店長が思案顔で呟いた。尻尾がゆっくりと動いている。本来は表情の分かりにくい黒猫の姿をしている割に、なぜか店長の表情は分かりやすい。
――元が人間だけに、普通の猫とは表情筋の構造が違うのかな?店長の七不思議の1つだよね……。
余計なことを考えていたことはおくびにも出さず、わたしは今度はその時の様子を思い出し、疲れから少し肩が落ちる。
「結構危険だった……。エリアス先生がいてくれたから何とかなったけど。特に新人を連れての配達だったし……」
「新人を連れて行く事の危険性は出発前に警告したはずじゃがな。またいつもの事だと思って真剣に聞いておらんだじゃろ?」
図星を突かれてわたしは小さくなる。店長にお説教されるのは今に始まったことではない。せめて優斗くんと茜ちゃんの前では魔法使いとして威厳を保っておきたかったのだが、わたしの威厳が崩れるのはそんな遠い未来ではないのかもしれない。
――ひょっとして、すでに崩れてる?
そんなわたしの心配する様子を一瞥し、店長は続ける。
「しかし最近、影魔法使い達の動きが活発になっているという噂は聞いていたが……」
「でも、すごかったです!」
優斗くんが興奮気味に言った。彼の目はまだ輝きを失っていない。
「千秋さんの魔法で敵を防いだし、エリアスさんの鏡で敵を追い払ったし!」
その無邪気な感想には思わず微笑んでしまうのを隠せない。確かに危険ではあったけれど、無事に乗り切れたことは誇らしい。それに、初めての魔法体験としては、確かに印象的だったかもしれない。一方、茜ちゃんの方はといえば、静かに思考の海に沈みこんでいたようだ。ふと考えが声になって漏れる。
「あの影……本当に人間だったの?」
彼女の分析的な思考は止まることを知らない。それに店長が答える。彼の声は深く、
「元は人間だが、闇の魔法に侵食されている。彼らは自分の意志で影の存在になることを選んだのだろう」
「なぜそんなことを?」
独り言のつもりだったのか、答えが返ってきて驚いた様子の茜ちゃんが、次は困惑した様子で店長に尋ねた。それに対する店長の答えは人間の根源的欲望の一部を示唆していた。
「力への渇望だ。魔法の世界では、力を求めるあまり自分自身を見失う者も少なくない」
わたしは店長の言葉に静かに頷いた。魔法の力は魅力的だが、それは使い方次第で祝福にも呪いにもなる。その境界線を理解することが、魔法使いにとって最も重要な教訓だと私は考えている。
ふと魔法の話題が苦手な拓人さんが気になって、わたしは彼の方を見やった。拓人さんはソファに深く腰掛け、疲れた様子でじっと目を閉じていた。彼の表情には何か思い詰めたものが見える。あまり良くない雰囲気を感じ取って拓人さんに話しかける。
「拓人さん、大丈夫?」
彼は通常、こんなに負の感情を表に出す人ではないのだ。しばらく待つと、「ああ、大丈夫だ」と肯定して拓人さんが目を開けた。
「ただ……あの影を見て思い出したことがあってな」
「思い出した?」
わたしは不思議に思って首を傾げた。拓人さんの過去は謎に包まれている部分が多い。彼は自分のことをあまり話さない人だ。わたしの疑問には答えずに拓人さんは立ち上がった。
「もう遅いな。二人を家まで送ってくる」
拓人さんは答える代わりに話題を変えることにしたようだ。そこにまだ話したくないのだろう彼の身の上を読みとって、わたしは話題の転換に応じる。
「あ、そうだったね。話にのめりこんじゃって気付かなかったよ。ごめんね二人とも」
時計を見て、外の様子を確認すると、ようやく暗い森での冒険に時間を取られすっかり夕方になっている事に気づいた。
「もう夕方だから、ご両親を心配させちゃいけないよね」
優斗くんと茜ちゃんは名残惜しそうにしながらも、帰る準備を始めた。今日の出来事は二人にとって大きな衝撃だったはずだ。人によってはトラウマとして心に残ってもおかしくはないくらいだ。でも、彼らの目には恐怖よりも好奇心の方が強く残っているように見えた。わたしはそれが嬉しかった。
「明日もまた来ていいですか?」
優斗くんが期待を込めて尋ねた。彼の目は恐怖よりも魔法への興味で輝いている。
「もちろん!でも学校が終わってからにしてね」
大きく頷きわたしは笑顔で答えた。魔法の世界は素晴らしいけれど、人間界での生活も大切にしてほしい。それが両方の世界を理解する鍵だから。
「そういえば、二人は部活とかには入ってないの?部活も疎かにしちゃだめだよ。高校2年生ってことは、どの部でも中心的な役割を果たしてる時期だろうからね」
「大丈夫です。わたし達、家の事情もあって初めから帰宅部なんで。あの、それで、私も来て良いですか?」
茜ちゃんはまだ少し考え込んだ様子だったが、結局、自分もついて来ると言った。彼女の科学的な視点は、魔法の世界を理解する上で貴重なものになるだろう。
拓人さんが二人を車で送り出した後、わたしと店長は事務所で今日のことを振り返っていた。窓の外には夕日が沈み、街に夜の影が忍び寄ってきている。事務所の中は、魔法の灯りが温かな光を放っていた。
「あの子たち、大丈夫かかなぁ……」
わたしは心配して店長にそう問いかけた。初めての経験としては少し強烈すぎたかもしれない。
「若いうちに真実を知るのは良いことじゃよ」
店長はそう答えを返してきた。否定的な意見ではなかったことに少しホッとする。彼の目には信頼できる深い知恵が宿っている。
「特に優斗の方は魔法に対して素直な好奇心を持っているようじゃ。これまでの様子を見ても、もしや才能があるのかもしれんな」
店長の情報網はすごい。お得意の猫ネットワークからの情報に加えて、体毛の色や模様を変えられる特技を生かして様々な所に潜入して情報を拾ってくる。
――二人のことについても、きっとわたしが知らない情報をたくさん持ってるんだろうなぁ。
「じゃあ、茜ちゃんは?」
私はハーブ入りの紅茶を淹れながら尋ねた。ハーブの香りが事務所に広がる。
「あの子は分析的で冷静じゃ。魔法を理解する上で、そういう視点も重要になる。いずれにしても貴重な人材じゃよ」
店長がそう評価した。基本的にお説教が先立ち、人を褒めることが少ない店長にしては甘口と言うか、二人への評価が高いような気がする。
――お説教ばかりの私としては、ちょっと嫉妬しちゃうな。なんて感じるのは、まだ未熟な証拠なのかな?
わたしは窓の外を見つめた。夕暮れの空には最初の星が瞬き始めていた。
「でも、影魔法使いが動いているだなんて……これからどうなるの?今までより徐々に危険が増えていくんじゃないの?」
「警戒するしかないさ」
片眉を上げて気取った表情で店長が答えた。いや、黒猫なので眉は見えないのだが、瞼の上の皮膚が少し上に挙上するのが分かった。
――猫のくせに表情豊かなんて……
そういう感想が自然と浮かんでくる。そんなわたしに気付いてか気付かずか、店長がわたしを気にせず続ける。
「そして、あの子たちにも少しずつ真実を教えていく必要があるだろう」
そのとき、拓人さんが戻ってきた。彼の表情は普段より硬く、何かを決意したかのように見えた。
「千秋」
珍しく拓人さんが落ち着いた声でわたしに声をかけてきた。
「あの子たちに、全てを話すべきだと思う」
「全て?」
わたしは驚いて振り返った。拓人さんがこんなことを言い出すのは珍しい。彼はいつも自分の過去については口を閉ざしていたからだ。「ああ」と、そんなわたしの言葉を肯定しつつ、拓人さんはソファに腰掛けた。
「あの影を見て思い出したんだよ。俺がなぜ魔法を嫌うようになったのか……、ある事件を鮮明に、な」
わたしは思わず驚きの表情を浮かべた。拓人さんが自分の過去について話そうとするのは本当に珍しいことだった。彼と出会って約2年になるけれど、彼の魔法に対する複雑な感情の理由は、断片的にしか聞いたことがない。
「本当に?」
わたしが確認するように尋ねた。彼の目を見つめると、そこには決意の色が宿っていた。
「ああ」
拓人さんはさらに深くソファに腰を下ろし直し、やや前かがみの姿勢になる。指をきつく組んで話すことを決意した拓人さんを店長も真剣な眼差しで見つめていた。
「話したいなら聞こう」
拓人さんは深呼吸をして、話し始めた。
「十年前、俺の妹は魔法に憧れていた……」
静かな彼の声で話は始まった。ただ、その声の中には深い悲しみと後悔が滲んでいるように思えた。私は息を詰めて聞いた。これは彼が心を開く、貴重な瞬間だと思ったからだ。