「先生が受取人だったんですか?」
「そうだよ」とエリアスと呼ばれた老人が頷いた。彼の目は穏やかだが、その奥には深い知恵が宿っている。
「二人は見ない顔だね?」
「実は昨日からうちの事務所でアルバイトすることになった高梨優斗くんと水沢茜ちゃんです。二人とも魔法に興味があって、協力してもらうことになったんです」
わたしは二人の高校生を紹介する。「初めまして」と挨拶をする二人に「こちらこそ」と返すエリアス先生の目には、過去を懐かしむような温かな色が浮かんでいた。
「昨日からという事は、まだまだ魔法に関しては知らないことが多いという事かい?」
「そうです。しばらくは私と拓人さんの配達をいろいろと見学してもらって、魔法に慣れてもらおうと思っています。今回の配達は難易度からも受取人不明という案件からも、店長には二人の同行を渋られましたけど、先生にご紹介できて良かったです」
簡単に二人の状況を説明したわたしは、受取人名の隠蔽についてエリアス先生に尋ねる。すると、申し訳なさそうにエリアス先生が答えてくれた。
「すまないね、名前を伏せたのは安全上の理由からだ」
「評議会からの緊急配達と聞きましたが……」
わたしは荷物を差し出した。評議会の長老であるエリアス先生が直接受け取るということは、この鏡は相当重要なものに違いない。
エリアス先生は荷物を受け取り、慎重に箱を開けた。中には美しく装飾された手鏡が入っていた。鏡の縁は繊細な銀細工で縁取られ、先ほどの魔法陣で見たような様々な不思議な模様が刻まれている。さらに驚いたことに、鏡面は普通の鏡と違って、水面のように揺らめいていた。エリアス先生が手鏡について説明を始める。生徒に教える時のように、優しい目で、分かりやすく、ゆっくりと。
「これは『真実の鏡』と呼ばれる魔法の品だ。見る者の本当の姿を映し出す」
「本当の姿?」
優斗くんが好奇心に目を輝かせた。
「心の中に隠された真実をね」
エリアス先生は鏡を持ち上げ、光に当てた。鏡面が虹色に輝き、その光が周囲に不思議な模様を描いていく。
「現在、魔法界でいくつかの問題が起きていてね。この鏡が必要なんだ」
拓人さんは警戒心を解かない様子で、エリアス先生を観察していた。彼はいつもこうやって冷静に状況を分析する。それが彼の強みでもある。
「それだけのために、なぜ受取人名を伏せる必要があったんですか?」
拓人さんの質問は鋭い。エリアス先生は拓人さんをじっと見つめた。
「鋭い質問だね。実はこの鏡を狙う者がいるんだ。だから極秘裏に運ばれる必要があった。待ち伏せを防ぐために受取人名も伏せてね」
「誰が狙ってるんですか?」
茜ちゃんが尋ねた。彼女の眼差しには知的好奇心が満ちている。
「それは……」エリアス先生が言いかけたとき、突然、周囲の空気が冷たくなった。わたしの背筋に悪寒が走る。これは……魔法の気配。しかも闇とか邪悪な部類に属する禁忌的種類の。
「来たか……。どうやら、招かれざるお客さんは君たちの後を付いてきてしまったようだね」
エリアス先生が呟くと同時に、わたしは即座に構えを取った。危険な予感が嫌でも増してくる。
「みんな、私の後ろに!」
暗くて輪郭の曖昧な影が森の中から突如として現れた。人のような形をしているが、顔は霧のようにぼやけている。影のような三つの姿が、わたし達を囲むようにゆっくりと迫ってくる。わたしの心臓が早鐘を打ち始める。口の中がカラカラに乾いていく。
「影魔法使い……」
緊張した面持ちのわたしの口から無意識に言葉がこぼれた。影魔法使いは魔法界でも危険な存在だ。闇の魔法を操り、多くの悪事を働いてきた集団。魔法評議会も彼らを長年追っている。
「鏡を渡せ」
影の一つが低い声で言った。その声は人の声というより、風の唸りのような不気味な響きだった。その声を聞いて、エリアス先生は鏡を背後に隠した。
「諦めなさい。この鏡を使わせはしない」
彼の声は穏やかながらも、強い意志に満ちていた。
「やはりすんなりとはいかぬか……。ようやく所在を突き止めたのだ。力ずくででも渡してもらおう」
影が両手を広げると、黒い霧がわたし達に向かって押し寄せてきた。蛇のように蠢き、周囲の光を吸い込むような黒い霧。それがわたし達を確実に包囲し迫ってくるのだ。わたしは素早く魔法陣を描き、青い光の壁を作り出した。
「ベシューツ・ノース!」
あらかじめ定められた古代魔法の起動キーワードを唱えると、わたしの魔力が増幅され、より強力な防御壁が完成する。黒い霧はその壁にぶつかり、一時的に止まった。
「拓人さん、二人を守って!」
わたしは叫んだ。この状況では、魔法の力を持たない三人を守ることが最優先だ。拓人さんは迷うことなく優斗くんと茜ちゃんを引き寄せ、守るような姿勢を取った。
「了解!そっちは大丈夫か?」
彼の声には心配の色が滲んでいる。
「うん大丈夫。でもこの防御だときっと長くは持たない……」
わたしが額に汗を浮かべながら答えた。影魔法使いの力は強く、わたしの魔法だけで長時間抵抗するのは難しい。その時、エリアス先生が鏡を高く掲げた。
「私を見くびってもらっては困るな。お前たちの正体・弱点を暴いてやろう」
下っ端魔法使いでは起動するのも難しいとされる真実の鏡を苦も無く操って、エリアス先生は鏡から放射状に強烈な光を放つ。その光の筋が影の一つに直撃した。まばゆい光が闇を切り裂くように広がる。影は悲鳴を上げ、その姿がゆらめき始めた。鏡の力によって、影の本質が現れ始めていた。
「ちっ、逃げろ!」
影の一つが叫び、残りの影は急いで森の中へと消えていった。鏡の力を恐れたのだろう。わたしたちは緊張から解放され、深いため息をついた。わたしの魔法防御壁も消え、森に通常の静けさが戻ってきた。
「二人とも大丈夫?」
わたしは優斗くんと茜ちゃんに尋ねた。二人の顔は少し青ざめて小刻みに震えていたが、怪我はなさそうだ。
「は、はい……」
優斗くんは興奮と恐怖が入り混じった表情で答えた。茜ちゃんは震える手で髪を整えながら尋ねてきた。彼女の理性的な心が、目の前で起きた非現実的な出来事を必死に理解しようとしている。
「あれは……本当に魔法だったの?」
「ああそうだ。これが魔法界の危険な部分だ」
拓人さんが重々しく答えた。彼の表情には苦い経験の記憶が浮かんでいるように見えた。鏡を慎重に箱に戻したエリアス先生は気づかわし気にわたし達を見た。
「申し訳ない。君たちを危険な目に遭わせるつもりはなかったんだ」
「あの影は何だったんですか?」
優斗くんが恐怖を乗り越え、好奇心を見せた。
「闇の魔法を使う一派だよ。彼らは魔法界と人間界の境界を崩そうとしている」
ためらいがちにエリアスが説明した。
「境界を崩す?」
茜ちゃんが困惑した様子で尋ねた。
「そうだ。もし境界が崩れれば、制御されない魔法が人間界に溢れ出す。それは大きな混乱を招くだろう」
エリアスが真剣な表情で続けた。わたしは疲れた様子を隠すように言葉を足す。
「だから私たちの仕事は重要なのよ。境界を維持するための手助けをしているんだから」
少し誇らしげな気持ちになりながら、わたしは二人の高校生に微笑みかけた。エリアス先生は優斗くんと茜ちゃんを見て、穏やかに微笑んだ。
「若い二人が興味を持ってくれるのは嬉しいことだ。魔法界には新しい理解者が必要なんだ」
「僕、絶対に役に立ちたいです!」
優斗くんが熱心に言った。彼の目には決意の光が宿っていた。茜ちゃんも徐々に冷静さを取り戻していた。
「確かに、見たものは否定できないわ……」
彼女の科学的な思考が、魔法という新たな現実を受け入れ始めていた。拓人さんは黙ったまま、少し離れた場所で腕を組んでいた。彼の表情には複雑な感情が浮かんでいた。何かを思い出しているのかもしれない。
エリアス先生はわたしに向き直ってお礼を述べてくれた。
「荷物の配達、ありがとう。報酬は通常通り送っておくよ。使った魔法薬の料金も含めてね」
「ありがとうございます」
わたしは礼を返した。エリアス先生のような高位の魔法使いからの依頼は名誉なことだ。
「これからも何かあればご連絡ください」
エリアス先生は頷き、扉の中へと戻っていった。扉が閉まると、木の幹から光が消え、元の樫の木に戻った。魔法の気配も薄れていく。
「さて、ちょっと予想外のアクシデントがあったけど、無事に配達も終わったし、帰ろうか」
わたしはそう宣言したが、拓人さんにはジト目で見られた。
「あれでちょっとか?」
「結果的に被害もなく任務達成できたんだから問題ないでしょ?」
「問題無いわけないだろうが、まったく。高校生たちのトラウマにならないように気遣ってやれよ。普通の人間はお前ほど図太くないんだからな」
「図太いって何さ!わたしだって繊細な所もあるもん」
わたしと拓人さんのやり取りを呆然と見ていた高校生の二人は、やがてクスクスと笑い始めた。
「お二人はいつもこんな調子なんですか?」
茜ちゃんが尋ねてくる。ハッとしたわたしは少々気まずくも答えた。
「まあ、概ねは……」
今回の配達では、正直なところ影魔法使いの出現には驚いた。彼らが真実の鏡を狙うほど何かを隠しているとは。エリアス先生も心配しているように見えた。魔法界で何か大きな動きがあるのかもしれない。
四人は静かに森を後にした。バンに戻る道中、誰もが先ほどの出来事を思い返していた。わたし自身も、この仕事が想像以上に危険になりつつあることを実感していた。でも、だからこそ、わたしたちの役割は重要なのだ。魔法界と人間界の懸け橋として、両方の世界を守る必要がある。
そして、この二人の若い協力者たちの存在が、新たな希望を感じさせた。優斗くんの純粋な情熱と、茜ちゃんの鋭い知性。彼らと共に歩む道が、これからどんな冒険につながるのか、わたしは少し期待に胸を膨らませていた。