事務所に戻ると、わたしは準備に取り掛かった。棚から様々な小瓶や道具を取り出し、小さなポーチに詰めていく。魔法の防御薬、緊急脱出用のアミュレット、簡易結界を張るための粉末……。万が一の事態に備えて、できるだけ多くの防御アイテムを用意する。B以上の難易度の配達は業界既定の基本配達料の設定も高く、追加使用したアイテムの事後実費精算も認められている。今回の依頼元は魔法評議会だから支払いも問題ない。せっかくの制度なのでありがたく目いっぱい利用させてもらうことにする。
「これは何ですか?」
優斗くんが青い液体の入った小瓶を指さした。
「防御力を上昇させる魔法薬だよ。危険な魔法から身を守るためのもの」
飲むと一時的に魔法攻撃への耐性が上がる効果がある。説明しているわたしの頭上にある棚の上から、店長の黒猫がわたしたちを見下ろしていた。黄色い瞳が厳しく光っている。
「難易度Bの配達に新人を連れて行くのか?」
「私と拓人さんがついてるから大丈夫!多分」
「不安しか無ぇ」
「大丈夫だってば。これでも一応正式に認められた魔法使いなんだから。この事務所の看板娘をもう少し信用しなさい!」
「看板娘、関係無ぇ……」
バンを駐車場に停めて戻ってきた拓人さんが早速顔をしかめてストレートな意見を述べてくるが、そんな彼を睨みながらわたしは少し強がって答えを返した。実際にはわたしも少し不安を感じてはいるのだが、二人に魔法世界の仕事を体験してもらうには良い機会かもしれないとも思ったのだ。
「……私は反対じゃがね」
店長がため息をついた。店長の尻尾が忙しなく左右に揺れている。不機嫌の証拠だ。黒猫のため息という珍しいものを披露しつつ店長は続ける。
「特に受取人不明の配達はいつもより伴う危険は大きいぞ」
「でも、魔法評議会からの依頼だし……」
わたしは弁解した。評議会の依頼を断れば、会社の評判に関わる。それに、わたしは彼らの信頼を裏切りたくない。
「じゃからといって油断はするでないぞ。評議会にだって陰謀はある」
店長が警告した。黄色い目が鋭く光る。
「評議会って何ですか?」
わたしと店長のやり取りを静かに見守っていた茜ちゃんが申し訳なさそうに割り込んでくる。彼女の知的好奇心が会話に割り込む申し訳なさを超えたようだ。
「魔法界の統治機関よ。法律や秩序を守る組織」
わたしは棚から最後の道具を取りながら答えた。
「まるで異世界物のファンタジー小説みたいだ」
優斗くんが目を輝かせた。彼の表情には純粋な喜びがあふれている。魔法を発見したばかりの喜びだ。わたしも最初はそうだった。わたしが用意したアイテムをまとめてバンに運んでいた拓人さんが、準備を終えて事務所に戻ってきた。
「よし、荷物、積み込んだぞ」
拓人さんの声に反応してわたしは振り返り、「ありがとう」と彼に微笑みかけた。拓人さんは不機嫌そうでも、いつもしっかりと仕事をこなしてくれる。
「じゃあ、みんな、行こうか」
四人はバンに乗り込み、そろそろ定位置化している座席にそれぞれが座った。バンは快調なエンジン音を立てて滑るように走り出す。今回は市街地から離れ、郊外の森に向かっている。窓の外の景色が次第に変わっていく。住宅街から商店街、そして郊外の田園風景へ。やがて木々が増え始め、森の入り口に近づいた。
「森の中に配達先があるんですか?」
茜ちゃんが不思議そうに尋ねてきたので、わたしはなるべく分かりやすく説明する。
「そうだよ。魔法で隠された入り口があるの。一般の人には秘密だけど、人間界と魔法界の境界の一つにもなってるんだよ」
このあたりには魔法の残滓が多く残っている。普通の人には見えないけれど、わたしの目には森全体が微かな魔法の光で満ちているように見える。
「すごい!魔法界に行けるんですか?」
優斗くんが興奮して身を乗り出した。そんな彼の興奮を鎮めるべく、わたしは少し残念そうに言った。
「残念ながら、今回行けるのは入り口まで。魔法界に入るには特別な許可が必要なの。今回は配達だけだから許可は取ってないの。緊急配達だからそんな時間も無かったしね」
魔法世界への入口は厳重に管理されている。一般の人間が無許可で入ることはできない。魔法使いであるわたしでさえ、特別な場合以外は立ち入りが制限されているのだ。
拓人さんは黙々と運転を続けていたが、時折バックミラーを通して後部座席の三人を見ていた。バックミラー越しに見た彼の表情には、わずかな不安が浮かんでいるように私には思えた。拓人さんは昔から魔法界に良い思い出が無いらしいのだ。
「拓人さんは魔法界に行ったことあるんですか?」
優斗くんが無邪気に質問した。回答を拒否するかと思いきや、拓人さんは少し間を置いてから、ためらいつつも答えた。
「ある。でも好きじゃない」
「どうしてですか?」
「……色々とな」
答えを曖昧にした拓人さんの過去について、わたしは全てを知っているわけではない。でも、何かとても辛い経験をしたことは感じている。
「魔法界は素晴らしい場所だけど、危険も多いの。だからこそ、その境界へと踏み込むことを許されたわたしたちの仕事は重要なんだよ」
わたしは少し沈んだ気持ちで窓の外を見ていた。郊外の森が次第に深くなっていく様子が見える。木々の間から漏れる光が、不思議な模様を地面に描いている。
バンは舗装された道を離れ、林道へと入っていった。道はどんどん細くなり、やがて車が通れないほどになった。
「さあ、ここからはみんな歩きだよ」
わたしの声に促されて全員が降りると、わたしは荷物や用意した各種アイテムを取り出した。今回の荷物は長方形の箱で、鏡らしきものが入っているようだ。箱全体が淡て緩く明滅する白い光を放っていた。これは高位の魔法が封じられている証拠だ。
「これが魔法の鏡ですか?」
優斗くんが箱を覗き込んで、手を伸ばしてきた。
「触っちゃダメ!」
わたしも緊張していたのだろう。思ったよりもきつい言い方になり、とっさに優斗くんの手を軽く払ってしまった。
「あ、その、ごめん。危険かもしれないから……」
払いのけられた手をじっと見てから、優斗くんは小さく「ごめんなさい」と謝った。後ろめたい気持ちを感じつつ、彼の安全を思って、今度は丁寧に言葉を重ねる。
「配達業務だから荷物に触れるのは普通なら当たり前なんだけど、今回は難易度がやや高くて危険も多いから、そういう時はわたしに聞いてからにしてもらえるとありがたいな」
わたしはフォローするように優斗くんに微笑みかけた。
しばらく徒歩で四人は森の中を進んでいった。木々が生い茂り、日光も薄暗く感じる。足元の柔らかい苔や、時折見かける小さな花々がわたしの気を引く。この森には普通の植物だけでなく、魔法の影響を受けた植物も生えているのだ。よく見ると、一部の花は微かに発光していたりする。
不思議なことに、森の奥に進むにつれて、周囲の音が変わってきた。鳥のさえずりや虫の音が遠のき、代わりに微かな鈴の音のようなものが聞こえてきた。
「この音……」
茜ちゃんが耳を澄ました。彼女の感覚は鋭い。
「魔法界からの響きだよ。境界が近いということ」
わたしは微笑んで、彼女の緊張を少しでも和らげようとした。魔法界と人間界が近づくと、このような現象が起きる。空気が少し濃くなり、色彩が鮮やかになり、音も変わる。それは二つの世界の間にいるような不思議な感覚だ。
さらに進むと、大きな樫の木が立ちはだかった。その幹は普通の木の何倍もあり、根元には小さな洞穴が開いていた。この樫の木は数百年も生きているはずだ。そして、魔法の力によって守られている。
「さて、何とか無事に着いたね」
「まだ荷物も渡してないだろうが!事務所に無事に戻るまでが仕事だ。気を抜くなこの阿保!」
わたしが拓人さんにお説教されている横で、優斗くんが首を傾げて呟いた。
「ここが目的地で、これが入り口?小さすぎませんか?」
お説教を垂れ流す拓人さんをこれ幸いと遮って、わたしは優斗くんに答える代わりに、ポケットから小さな鍵を取り出した。それは古い銀の鍵で、表面には複雑な模様が刻まれている。この鍵は魔法評議会から特別に与えられたもので、境界の扉を開くことができる。
わたしはその鍵を洞穴に差し込んだ。すると、突然、木全体が青白い光に包まれ始めた。幹の中央、洞穴から手前15cm辺りの場所に、直径がわたしの身長ほどもある緑縁の魔法陣が出現し、魔法陣の内側に青や黄色や赤で複雑な記号や読めない文字らしきものが次々と自動的に書き込まれていく。カラフルに光る魔法陣が完成すると同時に一瞬全体が光り、その奥にある洞穴の位置に大きな扉が浮かび上がった。光と影が織りなす模様が扉にも現れ、次第にはっきりとした形になっていく。逆に魔法陣は役目を終えたとばかりに徐々に薄くなって消えていく。
「うわぁ……」
優斗くんと茜ちゃんが同時に声を上げた。彼らの驚きと感動が伝わってきて、わたしも少し誇らしい気持ちになった。魔法の美しさを他の人と共有できることは、いつも特別な喜びだ。
わたしが完成した扉をノックすると、扉が開き、中からもまばゆい光が溢れ出した。目を細めながら前を見ると、扉の向こう側には一人の老人が立っていた。長い銀色の髭を蓄え、深い青色のローブを身につけている。
「やあ、千秋君。待っていたよ」
老人が柔らかく懐かしそうな目で微笑んだ。孫を見る祖父のような優しそうな瞳だ。
「エリアス先生!」
わたしは驚いた。エリアス・グレイストーン先生は魔法評議会の元上級魔法使いで、特に次元魔法と古代魔法の権威だ。わたしも見習い時代に彼から多くのことを学んだ。わたしは懐かしさから自分の目が潤んでいくのを止めることはできなかった。