磐梯山の異変から一ヶ月が過ぎた頃、町は完全に日常を取り戻していた。不思議なことに、あの奇妙な現象について語る人は日ごとに減り、やがてそれは「ある夜の幻想」として片付けられていった。しかし、七人の守護者たちの心と体に刻まれた記憶は、決して消えることはなかった。
青山智也は会社の休憩室で、ぼんやりとコーヒーを飲んでいた。目の前のノートパソコンには、新しいプロジェクトの仕様書が開かれていたが、彼の思考は別の場所を彷徨っていた。
「おい、青山」
声をかけられて我に返ると、上司の野村が心配そうに彼を見ていた。
「あ、野村さん。すみません、ちょっと考え事を…」
「最近、ずいぶん変わったな」野村は珍しく優しい表情を向けた。「何かあったのか?」
青山は少し戸惑った。一ヶ月前の出来事を話すわけにはいかない。だが、その体験が彼を変えたことは確かだった。
「いえ、ちょっと人生観が変わるような体験をしまして…」
「そうか」野村はふむふむと頷いた。「実は話があって来たんだ。例の地域活性化プロジェクト、君に任せたいと思っているんだが」
「え?」青山は驚いた。その案件は町全体のITインフラを整備し、防災システムを強化する大型プロジェクトだった。「私にですか?」
「ああ」野村は頷いた。「君なら、技術力だけでなく、この町への愛情もある。最適任だと思うんだ」
青山は窓の外に広がる町並みを見やった。そこには彼が守護者として守ることを誓った人々が暮らしている。
「承知しました」青山は決意を込めて答えた。「全力で取り組みます」
「期待してるよ」野村は微笑んで立ち去った。
青山は再び窓の外を見つめた。ITエンジニアとしての技術を活かし、この町を守る——それは守護者としての新たな使命だと感じた。『心の守護者』として、彼にしかできない貢献があるはずだ。
「
その瞬間、彼の胸ポケットに忍ばせていた「調和の鍵」の欠片が、かすかに温かくなったような気がした。
***
消防団本部では、村瀬悠介が新入団員たちを前に講義をしていた。
「消防活動において最も大切なことは何だと思う?」
新入団員たちは互いに顔を見合わせ、「消火技術です!」「体力です!」「勇気です!」と思い思いに答えた。
村瀬は微笑みながら首を横に振った。「それらも大切だ。だが、最も重要なのは『信頼』だ」
彼は窓辺に歩み寄り、外に広がる町を指さした。
「私たちが守るのは、この町だ。そして、守るためには町の人々に信頼されなければならない。また、仲間同士の信頼も欠かせない」
村瀬の声には、かつてない説得力があった。彼自身、七人の守護者たちとの冒険で、その重要性を身に染みて学んだのだ。
「副団長、質問です」若い女性団員が手を挙げた。「危険な現場で、どうやって冷静な判断を下せばいいですか?」
村瀬は少し考え、そして答えた。「完璧な判断など存在しない。迷ったとき、私は仲間の顔を思い浮かべる。彼らを守るために何ができるか、彼らと共に何ができるか——それを考えるんだ」
講義が終わると、高倉団長が彼に近づいてきた。
「立派な講義だったぞ、村瀬」団長は誇らしげに言った。「お前、随分変わった」
「そうですか?」村瀬は照れくさそうに頭をかいた。
「ああ、迷いがなくなった」団長はじっと彼を見つめた。「来年、私は引退する。次期団長は、お前にやってもらいたい」
「団長…」村瀬は驚いて言葉を失った。
「考えておけ」団長は肩を叩き、立ち去った。
村瀬は空を見上げた。かつての彼なら、自分の資質に悩み、躊躇していただろう。だが今の彼には、確固たる自信があった。『炎の守護者』として、彼は炎と向き合い、乗り越えてきたのだ。
「みんな、見ていてくれ」村瀬は心の中でつぶやいた。「私は皆から学んだことを、次の世代に伝えていく」
彼の体から、かすかに赤い光が漏れ出した気がした。
***
白石乃絵は、新しく開設した町の診療所で忙しく働いていた。異変から戻った直後、彼は看護師としての資格を活かした小さな診療所を開くことを決意したのだ。
「はい、これで終わりですよ」白石は小さな男の子の腕に包帯を巻き終え、ニッコリ笑った。「とっても勇敢だったね」
「痛くなかったもん!」男の子は胸を張った。「乃絵先生みたいに強くなりたいな!」
「あらあら」白石は優しく笑った。「私なんかより、ずっと強いじゃない」
男の子を見送った後、彼は窓際の椅子に腰掛けた。外では夕陽が町を優しく照らし、磐梯山の姿が美しく浮かび上がっていた。あの山頂で、彼は自分の弱さと向き合い、それでも前に進む勇気を得たのだ。
受付から声がした。「白石先生、次の患者さんです」
「はい、すぐ行きます」
白石が診察室に戻ると、そこには高齢の女性が座っていた。彼女は町の古老で、昔からの言い伝えを多く知る人物だった。
「やっぱり、あんたは変わった」老婆は意味深な表情で言った。「目の奥に光がある」
「え?」白石は驚いた。
「昔からの言い伝えよ」老婆は静かに続けた。「磐梯山の守り人は、目に光を宿すって」
白石は息を呑んだ。もしや、この老婆は何か知っているのだろうか。
「私は…」
「言わなくていいよ」老婆は優しく微笑んだ。「あんたたちのおかげで、この町は救われた。老婆の勘だけど、間違いないよ」
診察が終わり、老婆が立ち上がろうとして足を滑らせた時、白石は咄嗟に彼女を支えた。その瞬間、白石の手からかすかな青い光が漏れ、老婆の足の痛みが和らいだ。
「これは…」白石は自分の手を見つめた。
「『水の守護者』の力よ」老婆は知っているかのように言った。「使いこなせるようになったね」
「でも、どうして…」
「この町には、昔から不思議な力を持つ人がいるの」老婆は扉に向かいながら言った。「あんたは一人じゃない。これからも、その温かい手で、みんなを癒してあげてね」
白石は静かに頷いた。『水の守護者』として、彼にできることがある。かつて逃げ出した自分とは違い、今の彼には確かな使命があった。
「ありがとうございます」白石は深々と頭を下げた。「これからも、この町の人々を守ります」
***
加納壮馬の工房では、いつもと違う光景が広がっていた。無骨な機械工具に囲まれた空間に、数人の若者たちが集まっていたのだ。
「この装置がなぜ動くか、わかるか?」加納は自作の消火装置を若者たちに見せていた。
「えっと…水圧と空気圧の組み合わせですか?」一人の少年が恐る恐る答えた。
「半分正解だ」加納は珍しく優しい表情で言った。「だが、重要なのは設計者の意図だ。これは『命を守る』ために作られている。その思いが込められているからこそ、最大限の効果を発揮する」
若者たちは不思議そうな顔をしていたが、加納の真剣な眼差しに圧倒され、黙って頷いていた。
「加納さん、また熱くなっちゃって」通りがかった中村が茶化すように言った。腕のギプスは外れ、すっかり元気になっていた。
「うるさい」加納は短く言ったが、いつもの不機嫌さはなかった。
「青少年向け技術教室なんて、加納さんらしくないよね〜」中村はニヤニヤ笑った。
加納は少し赤面し、若者たちに背を向けた。「技術を伝えるのも、『土の守護者』の役目だろう」
「なるほどね〜」中村はさらに笑みを深めた。「俺も『風の守護者』として、笑顔を届ける役目があるからさ!」
加納は溜め息をついたが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。あの決戦以来、彼の心の殻は少しずつ柔らかくなっていた。技術だけでなく、人へも目を向けるようになったのだ。
工房の窓からは、夕暮れの町が見渡せた。加納は遠くを見つめながらつぶやいた。「『土』があってこそ、万物は育つ。私の技術が、この町の礎となるなら…」
「かっこいいこと言っちゃって〜」中村が茶化したが、その目は真剣だった。
加納は照れくさそうに咳払いをした。「お前こそ、いつになったら大人になるんだ」
***
橘遥は、地元のラジオ局のスタジオで、新しい番組の打ち合わせをしていた。
「『磐梯山物語』ですか?」プロデューサーは企画書を見ながら尋ねた。「面白そうだけど、古い伝説ばかり集めて、リスナーが付くかな?」
「大丈夫です」橘は自信たっぷりに答えた。「この町には、知られざる物語がたくさんあるんです。特に、磐梯山の守護者伝説は…」
「守護者?」プロデューサーが興味を示した。
「はい」橘はニッコリ笑った。「七人の守護者と、火の巫女の伝説です。私、いろいろと調査してきたんですよ」
「なるほど」プロデューサーは頷いた。「それなら橘さんにお任せします。でも、あまりオカルトっぽくならないように」
「大丈夫」橘はウィンクした。「真実は、時に伝説より奇なるものですから」
打ち合わせが終わると、橘は磐梯山が見える公園のベンチに腰掛けた。彼女のメモ帳には、七人の冒険を基にした放送原稿が、フィクションとして綴られていた。
「直接は語れないけど」橘はメモ帳を見つめながらつぶやいた。「この形なら、真実を未来に伝えられる」
『光の守護者』として、彼女の役割は真実を照らし出すこと。たとえ伝説の形であっても、その光は確実に届くはずだった。
「おや、橘」
声に振り返ると、佐久間が立っていた。退院して二週間、彼はすっかり元気になっていた。
「あら、佐久間さん」橘は嬉しそうに言った。「お散歩ですか?」
「ああ」佐久間は簡素に答えたが、以前のような無愛想さはなかった。「番組の準備か?」
「はい」橘は頷いた。「私たちの物語を、少しアレンジして…」
「真実を隠しながら、真実を伝えるのか」佐久間は静かに微笑んだ。「『光』と『闇』の良いバランスだ」
橘は嬉しそうに頷いた。佐久間が冗談を言うなんて、本当に変わったのだ。
「みんな、少しずつ自分の道を見つけ始めたわね」橘は空を見上げた。
「ああ」佐久間は磐梯山を見つめた。「自分の『闇』と向き合い、受け入れたからこそ見えてくる道がある」
二人は静かに夕陽を見つめた。かつての守護者たちが、それぞれの形で未来へと歩み始めていた。
***
夕暮れ時、中村薫は地元の小学校で子どもたちにバスケットボールを教えていた。腕のギプスが取れたばかりだというのに、彼は元気に子どもたちと走り回っていた。
「中村コーチ、すごーい!」子どもたちは彼のドリブルテクニックに目を輝かせていた。
「へへ、これくらい当然さ」中村は得意げに胸を張った。「『風の守護者』様だからな!」
「風の守護者?」子どもたちが首を傾げた。
「あ、いや」中村は慌てた。「ちょっとしたジョークだよ。俺、昔から風のように自由に動くプレイが得意でさ」
練習が終わり、子どもたちを見送った後、中村は一人、バスケットコートに残った。月明かりの下、彼はボールを高く投げ上げた。
「風の守護者、か…」
中村の周りにかすかな緑の光が漂い、彼の体が一瞬、宙に浮いたような感覚があった。ジャンプしたつもりはなかったのに、気がつけばボールをキャッチしていた。
「おっと…これはこれは」中村は苦笑した。「使いこなせるようになったな」
「調子に乗るな、中村」
振り返ると、そこには村瀬が立っていた。
「村瀬さん!何してるんですか?」
「青山たちが集まると言うから迎えに来た」村瀬は微笑んだ。「力の使い方、気をつけろよ。目立つぞ」
「いやいや、今のはただのジャンプですよ」中村は茶化した。「それより、ほら、行きましょう。みんな待ってるでしょ?」
村瀬は頷き、二人は歩き出した。
「なあ、村瀬さん」中村が急に真面目な声で言った。「俺、子どもたちに正しいこと教えられてますかね?」
「なんだ、珍しく真面目だな」村瀬は驚いた表情を見せた。
「いや、あの決戦以来、なんか考えちゃって」中村は照れくさそうに頭をかいた。「俺も何か役に立ちたいなって」
村瀬は彼の肩を優しく叩いた。「お前は既に立派にやっている。子どもたちの笑顔を見れば分かるだろう」
「ありがとうっす」中村は照れながらも嬉しそうだった。「『風の守護者』として、笑顔と自由を届けたいなって」
二人は月明かりの下、友人たちの待つ場所へと歩いていった。
***
青山のアパートでは、七人全員が久しぶりに集まっていた。部屋のテーブルには料理や飲み物が並び、和やかな雰囲気が漂っていた。
「さあ、みんな」青山はグラスを掲げた。「一ヶ月ぶりの全員集合に乾杯!」
「乾杯!」
七つのグラスが心地よい音を立てて触れ合った。
「で、みんな最近どう?」白石が優しく尋ねた。
一人ずつ、近況が語られていった。村瀬の団長就任の話、青山の新プロジェクト、白石の診療所、加納の技術教室、橘のラジオ番組、中村の子ども指導、佐久間の古文書研究…それぞれが新たな一歩を踏み出していた。
「なんだか不思議だな」青山は感慨深げに言った。「あの冒険の前と後で、僕たちはこんなに変わった」
「過去と向き合ったからこそ」白石が静かに答えた。「未来への道が見えたのよ」
「そうですね」橘も頷いた。「私たちはもう、逃げない」
「頼もしいじゃないか」村瀬は満足げに頷いた。「私も皆から学んだことを、これからの消防団に伝えていくつもりだ」
「村瀬団長か…」加納が口の端を緩めた。「悪くない響きだな」
「まだ決まったわけじゃ…」村瀬は照れて言った。
「いや、絶対なるって」中村が茶化した。「それより、佐久間さんの古文書研究って何ですか?」
佐久間は静かに説明した。「『闇の守護者』の歴史だ。古代から現代まで、どのような役割を果たしてきたのか調べている」
「本当に変わったね、みんな」青山は微笑んだ。「一人一人が自分の道を見つけ始めている」
「しかも、その道はバラバラじゃなく、どこかでつながっている」白石が優しく言った。「それぞれの形で、この町を守っている」
「守護者だからな」加納が短く言った。
七人は窓の外に広がる町の夜景と、遠くに佇む磐梯山の姿を見つめた。彼らの体からは、それぞれの色の光が微かに漏れ出し、部屋の中で優しく混ざり合っていた。
「これからも、何かあったら…」青山が言いかけた。
「当たり前だろ」加納が遮った。「七人揃わなければ、意味がない」
「そうだよ」中村も元気に言った。「困ったことがあったら、すぐに集合!」
「ええ」白石も微笑んだ。「私たちは繋がっているから」
月明かりが七人を優しく照らす中、彼らは静かに盃を交わした。過去の傷は癒え、新たな決意と共に、それぞれの未来への一歩を踏み出していた。
「蒼さん、
窓の外、磐梯山の頂に一瞬、青白い光が灯ったような気がした。