一歩、一歩、噛みしめて階段を上りきったのはいいけれど、“記憶”に存在して、そして”無い”はずの四階ではホラー映画みたいに幽霊とか謎の生物とかが襲ってくるわけはなく…。
ただの廊下と教室が並んでいるだけなんだよな。
「何の変哲もない…」
「そうだよ。普通の学園の四階だからね。でも、君には違うんだろ?」
「それはどういう?」
「チャイム鳴ったかい?」
「えっ!」
「毎日鳴るんだろ?」
「う~ん。まあ、そうだね」
「でも、今日は鳴らなかった」
「聞きそびれただけかも」
「俺の中では”いつも”鳴らないよ」
天戸の言葉はどこか脈略がなくて、掴みにくいな。
「たぶん、他の生徒に聞いても同じ答えが返ってくるだろうね」
まあ、そうだとは思う。
あれ?
なんでそう思ったんだ?
「そう言う事だよ」
どういうことだよ。
天戸はやはり、緩やかな笑みを浮かべている。
「君だけが“認識”している出来事がある。そして、君だけが“不自然”だと感じている日常もある。そうだろう?」
「ああ…」
やっと的を射た答えが返された気がした。
「それが囁…。世界の“
「ゆらぎ?」
「この世界はね。何もしなきゃ、すぐに壊れちゃうんだよね」
天戸の声は淡々としているけど、その言葉はズシッと胸の奥に沁み込んでいくようだ。
「それってどういう意味かな?」
なんだか、今日は同じ返答ばかりしているよな。
そんな事を考えていた時…。
――コン……コ…!
誰かがドアを開ける音がした。
「誰かいるのかな?」
振り返るがそこにいるのは俺と天戸だけ…。
「君には聞こえるんだね」
「何を言って…」
そして、そこには放送室があった。
さっきまでそこはただの教室だったのに…。
「こういう事だよ」
「そこにある物が消えて、ない物が出現する。放っておけば、やがてそれは現実と混ざって…裂け目が生まれる。さあ、開けて…」
「俺が?」
「今はまだ君にしか見えていない囁だから」
俺は少し躊躇したが、天戸は何も答えない。
仕方がない。
特に覚悟もなんにもなく…ただ漠然とした感じでドアを開けた。
中には、誰もいなかった。
だけど、正真正銘の放送室だ。
――なぜ、私はこうなの?
忘れ物みたいにテーブルに置かれたノートがなぜだか気になった。
たぶんぞれは、殴り書きされた文字が色を成しているから。
ただの言葉の羅列なのに…。
それでも、まるで心の叫びみたいに全身を震わせる。
俺には何を指している文なのかまるで意味不明だ。
「これは?」
「記憶の残響っていうのかな?忘れられた…置き忘れた誰かの想いのかけら」
「放送室にいた誰かって事?」
「そうだね。でも違うかもしれない。今はあった現実となかった現実が混ざりつつある段階だから。この想いを残した誰かは別の場所でつぶやいた物かもしれないし、書き留めただけのものかもしれない」
「誰かが…?」
「そう。どちらにしても対処が必要だよ。なぜなら…」
その時、放送室全体が歪んだ。
「ああ、俺にも分かるよ」
埃が被った機材、椅子の影、俺達しかいないはずの空間に破門のようなものが走り、空間の輪郭が揺れていく。そして、人影がかすかに視界にダブった。
ゆっくりと、それでいて朧気に「少女の姿」を映していく。
着込んでいる制服には見覚えがある。
この学園の物だ。けれど、顔はぼやけている。
足元も陰って見えない。
「囁が形を得た。これは歪理」
天戸の声に緊張が滲んでいる。
「残された感情が、居場所を求めて実体化しようとしてる。このままだと世界に亀裂が入り、封魔夢を呼び寄せてしまう」
ガラス窓の向こうで封魔夢の来訪を告げる警報が鳴っている。
そして少女の影は、唇を震わせていた。声は出ないが、叫びがある。
俺には聞こえる。
――どうして、上手くできないの?
――あの子のように上手く読みたいだけなのに。
「ああ、これはいつかの誰かが感じた嫉妬、悔しさの記憶だ」
何の気なしに俺はつぶやいた。
なぜ、分かるんだろう?
「そうか。なら、始めようか。
「修復?」
「
天戸はそう言うと、塩パンを取り出し、少女の影へと近づいた。
一体、君はどれだけのパンを持ち歩いてるんだい?
とは聞ける雰囲気ではないので黙っておく。
「君の思いはもう、持ち主の心にはきっと無いんだよ。だから、ここに留まらなくていい…」
パンの香りが漂ってくる。
お腹が鳴りそうだな。
「小麦粉と酵母、こんがり焼けたパンは香ばしいだろう。さあ、思い出して。現実の香りを…」
天戸がパンを少女に差し出すと、少女と彼の間に緩やかな波打つ魔法陣が出現した。
それらは淡く発光し、空気中に漂う何かを吸い寄せて、包み込むように弾けた。
「おかえり。現実」
天戸のつぶやきと同時に少女の影はわずかに顔をあげ、そして、目を伏せ、消えていく。
残ったのは静けさと、わずかなパンの暖かなぬくもりだけだ。
俺はただ、言葉もなく、その光景を見ていた。
自分達がさっきまでいた放送室ではなく三階の廊下の上にいる事に気づいたのは少ししてからだ。
「これは魔法?」
「だから、違うよ」
彼はそう言うけれど、確かに今、“何か”を救ったんだ。
最初に会った時と同じように…。
「これが
「うん。そうだよ。確かに魔法じゃない。だけど、必要なものなんだよ。誰かの心が、ずっと迷ってるなら。僕はそれを、整えてあげたい」
天戸蓮は、そう言ってパンをかじった。
中庭のさらに向こうで魔法科の生徒達が走り込みをしていた。
彼らの日々は訓練と危険の往復だ。
あれ?さっき、鳴り響いていたはずの封魔夢の来訪を告げる警告音が聞こえない。
いや、最初から鳴ってなかったみたいだ。
「よかった。今回は封魔夢の侵入をなかった事に出来たよ。君のおかげだね」
「えっ!」
「言っただろう?歪理は封魔夢を呼び寄せる。修復は傷口を塞ぐもの。そして、時に最適な現実に辻褄を合わせてくれる。今回みたいにね…あっ!猫がいる」
天戸蓮は何事もなかった放課後のように夕日を眺めていた。
まるで、誰かの記憶に想いを馳せるように…。
戦わない魔法使いか。どうやら、この世界には知らない所で誰かを救っている人間がいるらしい。
それでも、疑問は残るよ。
今起きた事が現実なら、君も”囁”って事なのかい?
これが俺と不思議なクラスメイトとの出会い。
そして、ちょっとした非日常と秘密の物語の始まりなのかもしれない。
まあ、それはそれとして今日も一日は終わるんだよな。