一瞬、空気がさらに研ぎ澄まされる。
二人しかいない教室で、天戸の驚いた瞳が俺を射抜いていた。
音が戻ったのは外から大きな爆発音が響いてからだ。
おそらく、魔法師と封魔夢との戦いが激化しているのだろう。
そして、目の前の謎のクラスメイトはゆったりと口を動かした。
「一番、聞きたいのがそれなのかい?」
「だって、気になるだろ。パンを作るのって凄く時間かかるだろ?もしかして、魔法パン焼き機を持ってるとか?」
だったら、まあ、朝の手作りもマシか?
でも、魔法が発達したとはいっても、料理器具周りに関しては出遅れてるんだよな。
さらに市販で売り出されている魔法パン焼き機は超高価。
安くても40万円台だって言う話だし、後は作れるパンの数はせいぜい3種類。
我ながら、調理器具情報に強いのはなぜなのか?
大体が母さんの独り言を覚えているのが原因である。
パンに関しては神岐市育ちだからだ。
なにせ、この街はパンが有名で美味しいパン屋の激戦区なのだ。要するに身近ってわけ。
後、魔法パン屋機器で焼いたパンは独特なお味なのだ。
もちろん、美味しいんだけれど…。
手作りのそれとは違う。
まあ、これは好き嫌いがあるって話しなだけだけどな。
「それで、どうなんだい?」
そんな風に聞き返せば失礼な事に天戸は腹を抱えて笑い出す。
なんだよ。質問しただけだろ?
「ごめんごめん。予想外の返しだったから驚いたんだ」
不満そうな顔を向ければ、彼は謝罪もほどほどに興味深さげに笑う。
「魔法パン焼き機は持ってないよ」
「なら…」
「全部手作り。大体朝の3時くらいに起きてるかな」
「ええっ!じゃあ、何時に寝てるんだよ?」
「う~ん。時間は特に決まってない。でも、僕はあまり眠らなくてもいいタイプみたいだから」
「そりゃあ、羨ましい限りだな」
俺はいくら寝ても寝足りないぐらいなのに。
母さんいわく、思春期は仕方がないといっていたが個人差はあるようだな。
「ミルクパンとか食パンとかどっちも作ってるのかい?」
「ああ、他にもクロワッサンとかフランスパンも?」
「はああっ!それってもうパン屋じゃん」
「家はパン屋だしね」
なるほど。
「もう、継ぐ気満々なんだ」
「いいや。それは決めてない」
「よく言うよ。もう、極めてるじゃん」
「パン作りはいわばライフワークみたいなものだからね。それに小麦粉とバター、後、発酵の気配は整わせるのにちょうどいいから」
また、整うか。
「ふ~ん。そんなものなのか」
妙に納得して見せると天戸の瞳はさらに強くなる。
「何?」
「いや、君みたいな人だからそうなのかなって思って…」
だから、何が?
「気になるのはパンだけかい?」
「まさか。そういや、パンの気配は整わせるって言った?」
「やっぱりパンがらみになるのか?」
「これはたまたまでして…」
「そうだよ。パンは僕にとって修復のアイテムって所かな?」
「修復?さっき使った魔法と関係ある?」
「魔法とどう違うんだ?」
「気になる?」
「まあ…」
「なら…」
天戸が言葉を紡ぐ前に教室の扉が勢いよく開いた。
「おーい、桜真ちゃん。魔法科の実践超迫力あったぜ。封魔夢とか瞬殺」
「はいはい。わかったから」
杉浦と藤里が興奮気味に戻ってきた。
そのすぐ後ろからは他の生徒たちもぞろぞろと教室に戻ってくる。
気づけば、教室は活気づいていた。どこを見渡しても魔法師の話ばかり。
天戸は何も言わず、自分の席に戻っていた。
パンの話も、彼が歪理と呼んだ現象も何もかも、なかったかのように…。
「げっ!二限目まで後1分もねえじゃん」
杉浦の嘆きにスルーしつつ、俺は自分の日常に再び引き戻された事を実感したのであった。
その後は二限目、三限目、四限目となんの変哲もない時間が過ぎていく。
俺はいつも通りに飲まれて、朝、見た不思議な光景を少しずつ棚にしまっていった。
だけど、放課後になると、なぜだかまた違和感を覚える。
いや、違和感というほど大きなものじゃない。
ただ、ふとした拍子に、耳に届くチャイムが聞こえずらかった気がしただけ。
毎日のように鳴る放課後の予鈴。
なぜか今日は聞かなかったなという感想を持っただけ。
「なあ、チャイム鳴ったっけ?」
「いつも鳴ってないだろ?」
藤里に何気なく質問したが、首をかしげられるだけだ。
「うん?そうだったかな?」
自分の感覚に自信が持てず、それでもなんだかモヤモヤする。
しかし、鳴らないという事実は正直…俺の日常にあまり影響も出ない。
だから、帰ろうとしていた俺に、天戸が声をかけてくる。
「糸森君。ちょっと、付き合ってくれないかい?」
「どこへ?」
彼は笑みを浮かべたまま、人差し指を天井に向けた。
「屋上?」
「違うよ。四階」
「この棟は三階までしかないだろ?」
「あるよ」
まさか!
そんな思いを持ちつつも彼の後についていく。
「おかしいな?」
思わず首を傾げてしまう。
俺達がたっているのは三階でいつもなら、屋上へ続く扉は閉じられている。
だが、目の前に映るのは紛れもなく20段ほどある階段。
「君にはここが最上階だっていう記憶があるのかい?」
「そうだな」
「なるほどね」
自分でも不思議な回答をしているという認識があるのに、隣に立つ天戸は特に表情一つ変えずに俺の言葉を受け入れた。
「じゃあ、行こうか」
「上がるのかい?」
「そりゃあ、放送室に用があるからね」
それこそ不自然だ。
「放送室は隣の棟…」
そこまで言って、俺は言葉を紡ぐのを辞めた。
「天戸君。君についていったら、俺の頭で起きている事が分かるのかな?」
「すべてではないけれど、おそらく…。大丈夫。君ならね」
天戸はやはり自然に口元を緩める。
“いつも”の彼だ。
それだけで、なぜか空気が和らいだ気がする。
やれやれ、妙な一日だ。
こうなったら、もう少し付き合っても罰は当たらないかもな。
さて、四階に行こうじゃないか。