「え~と、じゃあ、みんな出席してるって事で早速始めるよ」
どこか気の抜けた本堂先生の声に教室中から少しの笑い声が漏れた。
今期から、別の学校から赴任してきたっていう話だけれど、その態度はやる気があるのかないのかよく分からない。まあ、それでも彼女は先生で俺は生徒で、グレてもいないので、普通に授業は受けるつもりである。ちなみに1限目は現代魔法史なんだよな。
正直、魔法を使えない一般生徒に必要な科目なのかは謎だが、それも教養って事で納得してみる。
とはいえ、魔法が社会制度にどう組み込まれていったか?など、およそ朝イチで聞くにはあまりにも眠気を誘うだけの内容は辛すぎて、やはりだらけそう。
ただの暗記物の言葉が並ぶだけだし…。
「魔法と深く結びつくのが魔異禍です。特に封魔夢は……」
本堂先生の木漏れ日によく合いそうなゆったりとした声も相まって、眠くって眠くって…。
辛うじて入ってくる内容は封魔夢にも魔力が宿っているって事と彼らが四足獣に似た姿で、顔はないっていう話だったり、だけど、頭はボーっとしてくるので正確かは怪しい。
顔がないってどういうことだろう?
そう思いつつも、やはり眠気には勝てない。
「昔から語られる幽霊とか、妖などは封魔夢だったのではないかという説もあるわよ」
本堂先生の講義は静かに進んでいくが、そもそも、封魔夢の原因が未だ解明されていないのでどれもこれも憶測の域をでない。
やばい。外から差し込む日の光も相まって本格的に欠伸が止まらない。
「う~ん。この辺り、誰かに読んでもらおうかな」
ちょっと油断したかな。教室を見渡す先生の視線と合わさった。
「糸森君。読んでくれるか?」
あっちゃあ…。
予想通りあてられるか。
「はい」
俺は教科書を持って重い体を立ち上がらせた。
「えっと、70年前、魔力値の計測が義務化されたことで、あらゆる──え?」
異変は読み始めてすぐ、起きた。
ページに印刷された文字が、にじんでいるのだ。
いや、正確には歪んでいる?
文字が浮き上がって、ぐにゃりと曲がってもいる。
まるで、熱で揺らいでいるように…。
「糸森君?どうしたの?」
「いや……すみません、ちょっと、文字が見えづらくて……」
自分の目がおかしいのかとこめかみを指すってみるがやはり、歪んでいる。
その瞬間だった。
窓の外から、ほのかな香りが教室に流れ込んできたのは…。
バターの香り?
お腹空いてくるな。
昼食には早すぎるだろ。
重要なのは俺の腹ではなく、教室内の空気がふっと軽くなったように感じた事だ。
妙な緊張感が解けるような…不思議な感覚。
気がつけば、教科書の文字は元通りになっていた。
にじみも歪みもなく、印刷されたままの姿に戻っている。
「失礼しました。続けます」
読み上げながら、そっと目だけで彼の席を見た。
天戸蓮は、机の中から小さな包みを取り出していた。
中には、一口サイズのスコーン。
教科書を読みながら、それを口に運んでいた。
先生は気づいていない。
大胆な奴だな。よほど、パンが好きなのか?
俺の視線に気づいたのか、彼はちらりとこちらを見て、にこっと微笑んだ。
――焼きたて、だよ
声は発していないのに、なぜかそう聞こえた気がした。
いや、そう思い込んでるだけかも?
でも、今の空気の変化と、香りと、そして彼のその笑顔。
偶然、じゃないと思うんだよな。
「なんなんだい?君は…」
そうつぶやいた俺の声は、小さくて誰にも届かなかった。
教壇に立つ先生も、クラスメイトも、誰一人、何か異常があったことに気づいていない。
なのに、俺だけがこの“異物感”を認識しているみたいだ。
たぶん、それが一番おかしい。
だから、授業はその後も滞りなく進むんだよな。
でも俺は、ずっと考えていた。
今、感じたあれは一体、なんだったのか?
俺だけが“異変”だと思った物はなんなのか?
ああ、頭の中がグルグルする。
俺の解消されない思いとは裏腹に彼は相変わらず静かにクラスに溶け込んでいる。
教科書を読み、時折ペンを走らせ、窓の外に視線を投げる。
普通だ。完璧に、普通の優等生。
俺の脳だけが、天戸蓮という青年を“普通の存在”として認識できていないだけ。
そして、授業も淡々と続くのだが…。
「さて、それじゃ、次のページに進もうかな」
ふわっとした口調で本堂先生がつぶやいたその時だった。
教室がまた不自然にぐにゃりと揺れたように見えた。
「…ん?」
教室の空気が一瞬で変わる。
静寂。緊張。どこか、息を呑むような…。
――ダンッ!
騒音が窓の外に響き渡り、ガラスを激しく鳴らす。
『警戒通知。学内上空に封魔夢の接近を確認!実践許可証を持つ魔法科生徒は速やかに戦闘態勢に入ること。繰り返します──』
校内放送が、響き渡った。
母さんと話してた事が現実化しちゃったよ!
まさか、俺のとても小さな生活圏の中に封魔夢が現れるなんて驚き以外に何を思えと言うのか。
呑気にそんな事を考えている暇などないかのように、教室のすぐそばに霧と灰で出来たような獣が鋭い爪をたてて、飛んできた。
その顔は…ない。変わりにぽっかりと開いた空間から、奇妙な高い声を鳴り響かせている。
教科書に乗っていた封魔夢の姿そのものだ。
封魔夢は表情の読めぬ空間を浮かべたまま、まるで息をするかのように両足を前に出すと濃い紫色の霧が俺達の方へと迫ってくる。
それは徐々に長く、細く、尖った刃のように鋭い。
あれで貫かれたら一発でお陀仏だろうなと呑気に思う。
我ながら馬鹿な感想すぎる。
とはいえ、すべてはこの状況化において学園の校舎内にいるのが一番安全であると分かっているから的外れな感想も口走れるわけだが…。
――バンッ!
凶器となった霧の刃は教室に入る前に障壁の魔法式が組み込まれた窓にあたり弾かれ砕け散る。
それを合図とばかりに校舎中は緑の膜で包まられていく。
封魔夢の魔力を弾き飛ばす
そして、封魔夢の体を貫くのは魔法陣に包まれた杖だ。
それが、海埼の物だとすぐに気づいた。
彼女を支えるように半透明な白いベールに包まれた女性が背後を庇っている。
海埼千世の精霊だ。彼女達は生身で上空を駆け抜けていく。
魔法師の姿が教室から見えなくなったのを合図にクラスの空気が変わっていく。
「千世様の戦闘が間近で見られる!こんな機会滅多にないわ」
「マギスマホの充電大丈夫かな」
教室中のはしゃぐ声が大きくなっていく。
「こら、授業中」
「先生、もう終わりですよ」
気だるげな先生の注意に誰から返す。
確かに一限目は一分前に終わっている。
「ほんとだ。じゃあ、終わりって事で…。見学は良いとして間違っても校舎の外には出ないようにね」
「は~い」
先生が教室を出ていくのを待たずに、生徒達は我先にと騒ぎながら、廊下に出ていく。
そのころには海埼以外の魔法科の生徒達もグラウンドに姿を見せていた。
「桜真ちゃんは行かねえの?」
「パス」
目を輝かせる杉浦に手を振り、否定した。
「たぶん、魔法師の本気のバトル見られる」
藤里もマギスマホの準備を始めている。
「今日、なんか調子悪いんだ。大人しく座ってるよ」
俺は苦笑いで二人を送り出した。
気付けば教室には俺一人だ。
なんとなく、俺は再び教科書に視線を移した。
それがいけなかったのか…また、文字がぐにゃりと歪んでいた。
それだけではない。今度は机の縁が波打ち、黒板の影が真逆の方向に伸びている。
どうなっている?
思わず、目をこするが目の前の光景は相変わらずおかしい。
それは魔法を語る際によく用いられる“暴力的な存在感”ではなく、なんとなく静かでもっと不気味な…。
例えば、堅実そのものが歪んでいくような感覚だ。
「これも封魔夢の仕業か?」
「う~ん。正解なようであって違うかな」
独り言が音を成した瞬間、背後から声がした。
まるで空気に馴染むようにやはり天戸は立っていた。
いつからそこにいたのか?
彼は音もたてずに静かに俺の横まで歩いてくる。
「これは
囁?
「封魔夢は“現れるもの”。“囁”はずっとそこに潜んでるもの。両者は似て非なるんだよ」
いつも通りに穏やかな笑みで彼は俺の机にそっと触れた。
その瞬間、俺達を包むように淡いオレンジの光が走り抜けていく。
まるで、円を解きほぐした魔法陣のような、しかし、波打ち、流れる旋律を思わせる。
そう感じただけで違うかもしれない。
けれど、直感的に空間のねじれがほどけた。
それだけは確かだ。
「君、魔法師なの?」
「それも正解なようで違うよ。魔法は力でねじ伏せるものだから」
天戸の声はやはり穏やかだ。
「つまり、どういうことかな?」
「魔法師と区別するとしたら、そうだな。戦わない魔法使いって所かもね」
遠くで歓声が聞こえる。封魔夢を魔法師達が討伐したのだろう。
それでも俺は今、外で起きていた戦いとはまったく別の…異常を垣間見ている。
その何かが静かに修復する光景を目撃したのだ。
「僕は
――整える者か。
確かにその言葉がしっくりくる。
音もなく整えられていく空間と、その中心に立つ、異質な優等生…
何から何まで、俺の日常とはかけ離れている。
「これで、二限目は守られたよ」
天戸蓮は一言つぶやいた。
「あのさあ。聞いてもいいかな?」
「そうだね。君は知りたいよね」
俺を真っすぐに見据える天戸は次の言葉を待っている。
囁についてもっと知りたいし、俺が見た物が何なのかも教えて欲しい。
けれど、とりあえずは…。
「君の食べてるパン。手作りだって言っていたけれど、いつ作ってるんだい?」
高校生の朝は忙しいのだ。
パンを作る時間なんて確保するのは難しいだろ?