週末の日曜日。ダレンは相変わらず母親のいない1人だけの冷蔵庫の中の余りものの食材で適当に作った夕食を食べ終えた後、自分の部屋に戻って「ロンドン・ナイト1888」にいつものようにVRゴーグルとヘッドセットを着けてログインする。
散らかり放題であまり掃除していない自室がかき消え、視界に中世ロンドンの夜の街並みが広がった。今日はどんなアバター衣装にしようか。グレイの所有する馬車の中で目覚めたダレンは揺られながらメニューを開き、手持ちの装備を吟味する。
(やっぱりこの間の探偵風の衣装にするか。これならグレイと一緒にいても怪しまれないだろうし)
ダレンはそう思い、前回魔犬バスカヴィルの討伐クエストに参加した時に使っていたシルクハットにロングコートの中年男性の姿をしたアバター衣装をセットした。今の衣装が瞬きもしないうちに上書きされる。
「——こんばんは、おじさま。素敵な衣装ね」
向かい側の席から鈴を転がすようなかわいらしい声がしてダレンは顔を上げる。フリルやレースのついたセピア色の舞踏会に出かけるようなドレスに身を包んだ少女が座っていてダレンを見上げてにっこりと笑った。
「君……一体どうやってここに入ったんだい。この馬車は持ち主と許可されたユーザーしか入れないはずだけど」
「まあ。初対面なのにいきなりお説教だなんて嫌ねえ。おじさまはもしかして私がお嫌いなのかしら?」
警戒するダレンに少女がよく櫛削られた長い金髪を揺らしながら首をかしげる。馬車の中に設置されたミニサイズのオレンジ色の光を放つ
「名前は?」
「先にそっちから名乗るのがマナーではなくて?まあいいわ。私はジャッキーよ。ジャッキー・リップヴァーン」
「……僕はダレン。よろしくジャッキー」
ダレンが名乗るとジャッキーは微笑み、握手を求めてきた。手袋の下に日焼けひとつない色の白い肌がのぞいている。
「それでジャッキー。君はどうやってここに入ったんだい」
「それなら簡単よ。ダレンが来る前から私はここにいたんですもの。衣装選びに集中してて気づかなかっただけよ」
ジャッキーはそう言ってくすりと笑った。
「ねえ、今からどこに行かれるのかしら。私もついていっていい?」
「イーストエンドのスラム街に行くんだ、ちょっと用事があってね」
ジャッキーが「まあ!」と口元に手をあてて驚き、恐怖で大きく目が見開かれた。
「今からあそこに行かれるの?夜は特に危ないと思うのだけれど……最近物騒な事件も続いているし」
「うん、知ってるよ。僕の友人が……探偵をやっててね、どうしても調べたいって言ってきかないんだ」
ダレンがごまかしつつ返すとジャッキーは「ダレンも大変なのねえ」と言った。ふいに馬車が停車する。ドアが開いて葬儀屋姿のグレイが乗ってきたが向かい側の席に座ったジャッキーを見て目を丸くし、ダレンに彼女には聞こえないくらいの小声で尋ねる。
「ダレン、このお嬢さんは誰かな」
「ジャッキーだよ。僕もさっき初めて会ったんだけど。いつの間にか馬車に乗ってたんだ」
「何だって。所有者の俺と許可されたユーザー以外は入れないはずだろう?」
「そのはず……なんだけど」
ダレンがそう言うとグレイは隣に腰を下ろしてジャッキーと向かい合う。ざっと服装や様子を見たところは裕福な家庭の1人娘……といった印象だが、左右で色の異なる瞳はこの時代には珍しい。現代でも見かける機会はおそらく非常に少ない。
「ねえ葬儀屋さん、あなたのお名前は?手に持ってらっしゃるそれはなあに?」
ジャッキーがグレイの手にした古びたシャベルを見て尋ねてきた。ダレンが「ただのシャベルだよ」と答え、グレイを紹介する。
「グレイさんね。私はジャッキーよ」
「ああ……よろしく」
グレイはジャッキーが差し出してきた手を取ると握手を交わした。手袋に包まれた細い手は握ったら壊れてしまいそうで、すぐに離した。
「あら、着いたみたいね」
ジャッキーが馬車の窓の外を見てつぶやいた。ダレンとグレイはジャッキーに先に降りるように促し、後に続いて自分たちも下りる。夜のイーストエンドは濃い霧に加えて冷たい風が吹きつけてとても冷える。グレイはジャッキーの着ているドレスの薄さを心配して、上に着ていた黒のフロックコートを両肩からかけてやる。
「……ありがとう。グレイは寒くない?」
グレイはジャッキーに頷く。下は灰色のシャツ1枚しかないので心配したダレンが「僕のやつ使ってよ」とまったく同じデザインのコートを手渡してきた。グレイは受け取ると袖を通す。ジャッキーはというと、2人がやり取りをしている間に奥の路地へと入って行こうとしていた。
「待ってよジャッキー!」
ダレンが携帯できる角灯を持ってそちらへ駆け出す。グレイは馬車が入口で待っていることを確認すると、シャベルを携えてダレンの後を追った。
*
ジャッキーは路地裏をすいすいとよどみなく歩いていく。ダレンとグレイは追いかけるので精一杯だ。グレイはダレンの持つ角灯の明かりを見失わないように走った。灰色の霧が視界を邪魔するのがうっとうしい。
「ほら、2人とも早く!そんなのでは夜が明けてしまってよ」
ジャッキーがはるか先のほうで急かす。ダレンが走る速度を上げてやっと追いつく。
「は……速いんだねジャッキー」
「ダレンたちが遅すぎるんだわ」
ジャッキーがグレイのコートを風にはためかせ、少し怒った様子で頬を膨らませる。ダレンが謝ると機嫌を直したよう「いいのよ」と笑った。
「……ジャッキー、君はもしかしてこのスラム街に住んでいるのかな?」
「あら、どうしてそうお思いになるのグレイ」
「路地裏から入るなんて普通の人はしないからね。そう思ったんだ」
グレイが考えを話すとジャッキーはこくりと頷く。
「ええ、そうよ。私はここに住んでるの。街の中は全部お庭みたいなものだわ」
「そっか。じゃあ、知ってるかな。ここいらで殺人事件を起こしてる……切り裂きジャックのことを」
ダレンが切り裂きジャックという単語を出すとジャッキーは「もちろんよ。彼は有名ですもの」と言った。
「僕とグレイはその切り裂きジャックを探してるんだ。何か知らないかな?」
「さあ……?私も名前や噂は知ってるけどどこにいるのかはさっぱり。どうして探してるの?」
ダレンは隣に立つグレイと顔を見合わせる。「どうしようグレイ、
「……待てダレン。冷静になれ。ジャッキーの暮らしてるこの世界が全部ゲームだって言うつもりか?よせ、そんなことしたら余計に混乱させるだけだぞ」
「じゃあ、どうしろって言うのさ。代わりにグレイが言ってよ、僕説明が下手だからさ」
険しい表情のダレンがグレイに食い下がる。グレイは小さくため息をついてジャッキーの前に歩み寄り、彼女にも分かるようになんとか事件の状況を説明した。もちろんのこと、VRゲーム「ロンドン・ナイト1888」とその外の世界のことは伏せてだ。
「……そう。それは早く見つけないと犠牲になる人が増えるしグレイもダレンも大忙しね」
ジャッキーはグレイのコートに袖を通さず羽織ったまま、しばらく何事か思案する。
「そうだ。2人にひとつ、いい事を教えてあげる」
ジャッキーがダレンとグレイのほうに近づいてくる。ダレンの持つ角灯の明かりを反射してジャッキーの瞳が妖しく輝いた気がした。目と鼻の先ほどの距離まで来た彼女が耳元でそっと、秘密を打ち明けるように囁く。
「切り裂きジャックはね…………私よ」