メタリックグレーのVRゴーグルを両目からはずし、緊張してこりかたまった顔や肩の筋肉を指でもみほぐす。こういうものにはとにかく疎く、この仕事を始めてから今まで一度もふれる機会などなかったのでわからないことだらけだ。

グレイ・シャンはほんの数分前まで自分の目の前に広がっていた中世ロンドンの夜の街並みを思い出す。実際にその時代を生きていたわけではないのでなんとも言えないが、これほどまでにリアルだとは予想していなかったのだ。気づけばこのVRゲーム「ロンドン・ナイト１８８８」のプレイを始めてもう５日が経とうとしていた。



『おーいグレイ、聞こえる？ゲームを終わるならちゃんとログアウトしないとダメだよ』


「ああ、そうか。悪いなダレン。ログアウトの方法、もう一度教えてくれないか？」



グレイが耳に装着している専用のヘッドセットからメンバーを組んでいたダレン・ラヴィットという少年が不機嫌そうな声で『ええ～またなの』というのが漏れ聞こえる。実は昨日も同じことを聞いたばかりだ。



『もうさあ、いい加減に覚えてよ。どこでもいいから画面の端にさわったらメインメニューが自動的に開くから、あとはログアウトの項目をタッチすればいいんだよ。ここまでOK？』


「ああ。それから何をすればいいんだ？」


『え、何って……それだけだよ。あと心配だったら財布の中身は全部銀行に預けたほうがいいかもね。あんまり大金持ってると襲われたりする確率高いし。僕の友だちが最近さあ、荒稼ぎして稼いだゲーム内通過全部盗られたって言ってた』


「そうか、じゃあ今から銀行に行ってからログアウトするよ。近くに他のメンバーはいるかい？」



グレイは再びVRゴーグルを着けなおす。殺風景な自宅の寝室がかき消え、耳元で渦を巻くようにうなる風の音とロンドンの街並みが視界いっぱいに戻ってきた。足を１歩、前に踏み出そうとして思いとどまる。今グレイが立っているのは廃墟になった寺院の屋上で、そのまま歩きだしていたら危うく転落死ゲームオーバーするところだった。



「あっぶないなあ、もう。今この場所にいるのは僕だけだよグレイ。銀行の場所ならばっちり頭の中に入ってるから案内するよ」



グレイの後ろからダレンが歩いてくる。いつの間にか昨日は金髪碧眼の少年助手という雰囲気だったアバターはいかにも貫禄のある探偵のようなロングコートを着た中年男性の姿に変わっていた。だが中身と外見のバランスがとれていない。

ふうう……とダレンのアバターが慣れた手つきで手に持ったパイプをくゆらせたがもちろん煙は出ていない。グレイが試した時にはしっかり出ていたので、おそらく年齢に配慮した仕様なのだろう。



「君はダレン……なのかい？ずいぶん渋いかんじのアバターじゃないか。まさかまた課金……したのかい」


「うん。今回のはカッコよかったし、僕１回こういう服着てみたかったんだよね。そういやグレイはずっと初期衣装のままだね。それ、着替えないの？いい店ならいくつか知ってるけど銀行のついでによってく？」



ダレンはグレイがゲームを始めてからずっと使い続けている短くカットされた茶髪と髭、白いワイシャツと黒いジーンズ姿を眺めて煙のないパイプを口にくわえたままグレイに提案してくる。「案内を頼む」とグレイが答えるとダレンは寺院の屋上から隣の建物へひょいっと飛び移る。

ジャンプが人間離れしているのはアバターの衣装だけでなく、きっと基礎能力へも課金しているのだろう。



「おい、待ってくれよダレン。先に行かないでくれ、見失うだろう」


「あせらなくても大丈夫だよ、画面のミニマップに僕の現在位置出てるでしょ？そのままついて来て」



建物の外壁からあっという間に黒いレンガを敷いた大通りに降り立ったダレンがまだ屋上にいるグレイに向かって声をはり上げる。グレイは焦るものの、とてもダレンのようには移動できないと観念し、階段を使うことにした。

＊

「遅いよグレイ。銀行もアバターショップも年中無休。いつでも開いてるけどさ、早くしないと夜が明けるよ」
「移動が遅くてすまない。もうそんな時間なのか？」


「うん。今午前４時だからあと１時間くらいでこっちにも日が昇るかな。それから最近、ここいらは治安が悪いしいろいろ物騒だしね。変な奴に襲われたくないから夜間はログインしないようにしてる」


「じゃあ今は？こんな時間までログインしてていいのかい、明日は月曜日だから学校あるんだろう」


「グレイってなんかさ……うちの母さんみたいだよね。心配しなくても大丈夫だって。銀行とアバターショップに付き合ったらすぐにログアウトして寝るからさあ」



ダレンの声にわずかに苛立ちががまじる。グレイは「それがいい」と返すと、ダレンは足早に大通りを横ぎって先に行ってしまう。グレイは今度はあわてずに画面端のミニマップを見る。そう離れてはなさそうだ。

(よし、行くか)



グレイは前を向き、大通りをダレンを追いかけて走りだした。



＊



ダレン行きつけのアバターショップは落ち着いた雰囲気の外観の店だった。しかし扱っている店内の品物の値札を見ると２５８～２５７８ポンド（日本円で約５万円から５０万円くらい）以上のものばかりだということにグレイは気づく。



「ん？どうしたのグレイ。アバター衣装買わないの。武器とかもあるよ」


「……どれも高すぎるだろう。とても手が出ない」



店内を一周してきたダレンが値札を見て眉をひそめているグレイの隣にやってきて小声で尋ねる。



「な〜んだ、そんなことか。大丈夫だよ代金は僕が全部払うからさ。どれでも好きなの選んでよ」



ダレンはそう言うなりコートのポケットの中から重そうなオリーブ色の巾着袋を取り出した。振ると固いもの同士がぶつかりあうような音がする。



「それ、中身はなんなんだ。ゲーム内通貨かい」


「……ああこれ？たまに町に現れるモンスターを討伐するクエストを受けたりするんだけど素材がだいぶ貯まっちゃってさ。ちょうどいいから今から売却しようと思って」



ダレンはそう言って巾着袋の中身を取り出して茶色の手袋をした自分の手のひらに乗せる。不揃いの赤い小石か宝石のようなものがざらざらと出てきた。

「それは？綺麗な石だな」


「モンスターの血が結晶化したもので一般にはBS……ブラッドストーンって呼ばれてる。これならたぶんランクは低いけど、希少なレア素材の部類に入るから高値で売れるはずだよ」

ダレンは巾着袋を手に店の主人がいるカウンターのほうに歩いていく。グレイは店内を見回し、奥のほうにあったシャベルを見つけると棚まで行って手に取ってみる。見た目は使い古された印象のシャベルだったがその値段は……。

（これが……ご、５１６ポンドだって⁉）

グレイの顔から血の気がひいて卒倒しそうになった。どうみてもただのシャベルだ。値段が間違っているのではないかと思わず二度見する。後ろから肩をたたかれて振り返るとダレンが上機嫌な顔で立っていた。

「お、武器はそれにする……って、これシャベルじゃん。ええ、しかも５１６ポンド⁉ちょっと待ってグレイそんなんでいいの。もっと剣とか銃とかさあ、カッコいいのが他にもいくらでもあるじゃない」


「俺もそう思ったんだが……どうも気になってね」


「うーん……グレイが言うなら僕は別にいいけどさ。不良品だったりするかもよ。一度買うと返品はできないけどそれでもいい？」

ダレンが念をおす。グレイは頷いた。ダレンが棚からシャベルを取り、しばらく品定めをするようにあちこち触ったりしていたがやがてカウンターに持っていく。先ほどのBS全部を換金して得た分の大金で購入は非常にスムーズだった。

「お待たせ。じゃあ次は衣装だね。グレイはどんな雰囲気のが好き？」

支払いを済ませたダレンから丈夫なベージュ色の紙に包まれたシャベルを受け取る。ダレンが武器とは別になった棚をグレイに手で差し示す。

「特に……これといった好みはないな。ダレンが適当に選んでくれないか」


「え、僕が選んじゃっていいいの。グレイの趣味に合わないかもしれないよ」

グレイが「かまわない」と任せるとダレンは棚の間を歩きながら、いくつか衣装をピックアップし、店内にある大きな姿見の鏡の前へグレイを連れていく。

「これはどう？似合うんじゃないかな」

ダレンが選んできたのはセットになったアバター衣装で最初は自分が装備しているような探偵風のもの。２枚目は警官風、３枚目はなぜか葬儀屋風のものだった。色合いはどれも派手ではなくクラシックで落ち着いているデザインだ。どうやら服選びのセンスはいいらしい。

「ダレン、葬儀屋の衣装はさっきの武器に合わせたのかい」


「あ……ばれた？シャベルだし違和感ないかなと思って」

グレイはダレンの指示に従って姿見の前で３枚の衣装を切り替えて試着してみる。探偵風の衣装に含まれた黒いロングコートとシルクハット。葬儀屋風の長いプラチナブロンドのヘア、黒真珠のピアスやペンダントなどのアクセサリー各種が気になったがダレンからどちらかにしてほしいと言われて悩んだあげく、葬儀屋風のセットにした。

「オッケー。買ってくるから外で待ってて」

グレイから衣装セットを受け取ったダレンは再びカウンターに行く。グレイはシャベルを脇にかかえて店から出て、入口ドアから少し離れたところにしゃがんで座った。しばらくすると紙袋を抱えたダレンが出てくる。

「はいこれ。せっかくだし今から装備してみてよ」


「ああ。どうやるんだ」

グレイがダレンに方法を聞き、おぼつかない操作でメニュー画面からアバター装備画面を開く。さっき買ったばかりの衣装が登録されていたので選択すると、一瞬で初期衣装が上書きされる。

「へえ。わりと似合うじゃない。カッコいいよ」


「そうかな」

グレイは視点をインカメラにして自分の姿を確認してみる。黒いシルクハットと長い金髪、左右非対称なデザインの黒のフロックコートの下に同色のベストとズボン。中に着たシャツだけ薄めのグレーでバランスは悪くない。試しにゆっくりとその場で回ってみる。コートの裾が風にはためいた。

「それじゃあ、そろそろログアウトを……。ごめん、そういえば銀行に行くんだったね。空が明るくなってきたし、移動にはこれを使おうか」

ダレンが自分の額をぴしゃりと手で叩き、グレイの背後を指さす。そこには一体いつの間に現れたのか、灰色の馬が２頭繋がれた黒い馬車が停まっていた。

「さっき買ったアバター衣装のおまけだってさ。多少は揺れるかもだけど歩くよりはマシでしょ」


「まあ……そうだな」

グレイは頷く。御者は慣れているダレンが務めることになったが必要ないらしいと分かると馬車の扉を開けて乗りこんでくる。車内は中世の雰囲気を出すためかぼろぼろの内装だったが、座った席のクッションはほどよく柔らかく中は思ったよりも広かった。ダレンがマップから最寄りの銀行を行き先に指定すると、自動的に馬車が走りだした。

「ん？」


「どうした」


「協会……運営本部から僕らにクエストの依頼が来たみたい。メニュー画面を開いてみて」

グレイがメニュー画面を開くとクエストの項目が赤く点滅している。指で触れると「緊急クエストのご案内」という文字が表示され、その下にクエストの内容が細かく記されている。討伐対象は魔犬バスカヴィル。群れで発生したらしく被害を最小限に抑えるため、迅速な討伐が望まれるらしい。参加したユーザーには報奨金も出るようだ。

「どうするグレイ。今から行き先を変えれば行けそうだけど、僕は一緒に行けないし今回は辞退しとこうか。それとも思いきって……初めての戦闘、参加しちゃう？」

ダレンがおどけた調子で聞いてくる。本当は今すぐに一旦ログアウトして眠りたいのだが、今の仕事はこのゲーム内で起きた怪事件の原因を突き止めることだった。グレイは長時間同じ体勢でいたことによる肩や腕のこりをもみほぐしながら、出そうになる欠伸もかみ殺す。

「いや……行こう。行き先をクエストの場所に変えてくれ」


「了解」《》