その『彼女らしい』仕草に、胸を撫で下ろした侃爾は、
「安心しろ、もう終わりだ」
と優しげに口角を上げた。
「痛かったか?」
「痛、かった……です」
震える声でシイが答える。まるで少女のような仕草で目元を擦る。
その様子を見た侃爾は、立ち上がり際、まるで当然という動作で彼女の頭を撫でた。昔、弟にそうしたように、『頑張ったのだから褒めてやろう』という単純な思考による行動だった。
シイも不思議と自然にその手を受け入れ、自分より高い体温に心地よさそうに目を閉じた。
互いに、恐れも疑問も嫌悪も不快感も無かった。
ただそうすることが最良であるという錯覚を、侃爾は漠然と覚えていた。
そのとき傍に人影がやって来た。店主が「救急箱、片付けますね」と意味深げな微笑みを浮かべながら手際よく片付けていく。
それを契機に漸く、侃爾はシイの頭に置いていた手を離した。
「侃爾君、メニューはお決まりですか?」
店主に問われ、侃爾がシイに視線を向けると、彼女はメニュー表を端から端まで眺めて困ったように首を傾げた。
「じゃあライスカレーを二つ。食後にはアイスクリームとホットコーヒーを」
「かしこまりました。――侃爾君、可愛らしいお嬢さんを掴まえたね」
店主が、ソファーに腰掛けた侃爾の耳元で声を顰めた。侃爾は嫌そうに顔を歪めて「そういうのじゃない」と返す。
「とは言え良い関係の子だろう?」
「そんな感情は一寸も無い」
「何だ、キミ残念だな。とても素敵な子なのに。放っておいたら誰かに取られてしまうよ?」
「別にそんなこと…………」
――――俺には関係無い。
言いかけた言葉は声にならなかった。
本当に関係無いのだろうか、――と一抹の疑念が過る。
目の前ではシイが熱心に内装を見回していた。
彼女の顔の傷は白粉と薄暗い照明によってまるで目立たず、ただ佇んでいるのを見れば美しい容貌をした少女だった。喋れば人慣れしていない落ち着きの無さはあるが、純粋で柔和な性格は人受けしやすいだろう。加えて、薄幸者が纏う儚く妖しい雰囲気は、彼女に興味を抱いた人間を一層惹きつける。――これは主観でしかないが、シイは決して魅力の無い人間ではない。
しかし、彼女がいくら蠱惑的な女性であっても、侃爾にとってはただひたすらに憎むべき仇なのだ。恋愛感情など生まれるはずもない。今このとき、いつもよりも警戒心を解いて楽しそうなシイを見て思うことがあるとすれば――……。
「まあ、こんな老いぼれに若者の気持ちは分からんがね」
物思いに耽る侃爾にそう言い置いて、店主はカウンターの奥へ引っ込んでいった。
交換された灰皿を手繰り寄せた侃爾が、学生服から取り出した煙草の箱その角を無為に弄っていると、シイが不器用に破顔しながら「ここはとても素敵です。とても楽しいです」と無垢に声を弾ませた。
明るい表情の彼女を見て、侃爾は再び喉を詰まらせた。言葉を吐き出す代わりに燐寸を吸って煙草を咥え、煙で肺を満たす。
返答が無いことを気にもせず、シイは出窓に引かれたカーテンを持ち上げて外に目を凝らした。人通りの少ない通りに、アーク灯のぼやけた光だけが煌々と照っている。
侃爾が吐き出した紫煙が、洒落た柄の天井を目指して上っていく。
無言でそうしているうちに、注文した品が届けられた。
目の前に料理がきても、シイは侃爾が手を付けるまで微動だにしなかった。
彼女の大きな双眸にじっと見つめられ、気まずさを感じた侃爾が一口目を運んだ後に、シイは許しを得たように熱々のカレーのルーをスプーンで掬って口に含んだ。
「んん!」
唇を結んだまま叫ぶシイを、侃爾は悠々と観察した。
シイは口内のものを急いで嚥下し、
「辛い……っ」
と顔を顰めて侃爾を見た。
瞬間、噴き出しそうになった侃爾は、その衝動を手で押さえつけてどうにか凌いだ。
「……これでも甘いほうだぞ? 口に合わないか?」
「そんなことはありません! 今まで食べたことが無い、刺激的な味がして驚いただけです。美味しいです」
「飯と一緒に食べるんだ。そうすると辛さが和らぐ」
言われた通りにして美味しそうに食べていた彼女が、白米を半分ほど減らした頃。
きつく結んでいた帯を緩めるさりげない仕草に、侃爾は目敏くも気が付いた。
「多かったら残せよ」
言われたシイが悪戯を見つけられた子どものように肩を跳ねさせる。
そしてでんでん太鼓を鳴らすように首を振った。
「そんな勿体無いことできません」
「なら俺に寄越せ。まだ余裕が――……」
台詞の途中から、侃爾は己の失言に頭を抱えそうになった。
世話を焼いてしまいたくなるのは長兄の性なのだ。相手は仇の女なのに……。しかし発言を無効とすることは憚られた。いくら仇だろうが、一度口にしたことを取り止めるのは男としての矜持に関わる。