侃爾の芯の通った声に、シイは恐る恐る両手の指を伸ばした。手の平には大小無数の傷が、浅い水たまりのように血を滲ませていた。
地獄を見たような心地に、侃爾は強く奥歯を噛む。
目を背けたいのを堪えながら、力を籠めずにシイの手を布巾で拭ってゆく。途中何度かシイの指先が跳ねたので、「冷たいかもしれないが我慢してくれ」と顔も見ずに伝えた。
続いて救急箱からヨードチンキの瓶と脱脂綿を取り出す。綿球やピンセットは見当たらなかったので、直接脱脂綿にヨードチンキを含ませて傷にあてた。
その時、――――。
「ん……っ」
シイがくぐもった声を上げた。
侃爾が怪訝に思い見上げると、彼女は処置をしていないほうの手で口を押さえ、ぎゅっと目を瞑っていた。辛そうに、緩慢に開いた目と視線が合う。侃爾が反応にあぐねていると、シイは慌てた表情で手を下ろし、魚のように口を開けたり閉じたりした。
「だっ、あの、別に、痛いとかでは全く無くて――――…っ!」
必死に取り繕う様子に、侃爾は呆れとも安堵とも取れる溜息を吐いて眉尻を下げた。
「『痛い』か、……まあ、痛いだろう。浅い傷ばかりじゃないからな。しかしそれが普通の反応だ。別に痛みを我慢をする必要は無い。だが処置は続けるから、堪えられなかったら泣き喚け」
坦々とした侃爾の言葉に愕然としたシイは、今まさに泣きそうに顔を歪めて「お店に迷惑を掛けてしまいます」と俯いた。
「ここの店主はお節介が趣味の好々爺だからそんなことは気にしなくていい。――それよりほら、手ぇ出せ」
うう……、と呻いたシイは観念したように天井に向けて両手を開いた。侃爾は再び対峙した傷への嫌悪感を押し潰して、脱脂綿を近付ける。そっと触れるとシイがまた「ひっ」と鳴いた。
「ぁ、……うぅ……」
濡れた脱脂綿を押しつけるたび頭上から落ちてくる嬌声――……にひどく似た悲鳴に、侃爾は選別することのできない感情を抱えてひそかに苦悶した。しかし同時に、シイの人間らしい反応に愉悦を感じてもいた。
涙が零れそうなシイの瞳が、頭上のランプの光を反射して輝いている。
「い、痛い、です」
傷に脱脂綿を乗せたまま手を止めた侃爾を、責めるように、急かすように、シイが言う。
「――――……よかったな」
侃爾が呟くと、シイは涙目で首をひねった。
「痛みを感じないほうがおかしかったんだ。今まで失われていた感覚が戻ったことは喜ばしいことだろう」
「そう、でしょうか……。こんなに痛くて、涙が出るのに。また人に迷惑を掛けてしま……」
侃爾はシイが言い終わる前に、
「人というのが誰のことを指すのか知らないが、少なくとも俺は迷惑じゃない。だから、今は泣いていい。……いや、違うな。泣いてもらったほうがいい。痛みの度合が分かったほうが、安心する」
と努めて顔を見せないように、使用済みの脱脂綿を灰皿に落とした。シイが目を瞬かせながら何とも形容しがたい顔で動きを止める。
侃爾は己の発言に一抹の照れを感じ、その感情を隠すように顎をしゃくった。
「次。足を見るぞ」
暗に『着物をどけろ』と告げると、シイは聞き分けよく、そして大胆に菫色の裾を持ち上げた。それを目前で見ていた侃爾は、瞬時に目を剥いて声を荒げる。
「待て、そこまで上げなくていい」
露わになった太ももの白さから顔を背けた侃爾が珍しく取り乱していると、シイは状況を把握していないながらも只事ではないと慌ててそれを隠し、膝下だけを器用に裾から覗かせた。
「そ、粗末なものを見せてしまい、すみません……」
粗末では無いから困るのだ、と侃爾はいまだにシイを直視できないまま汗顔した。女の足を見たくらいで動揺するなんて情けない。この場に透一などがいたらからかわれて一生の笑い者だっただろう。
侃爾は咳払いをして己の煩悩を払い、心を無にして擦り傷のある膝頭の処置を始めた。消毒をしながら、細い足首に向かって垂れていく赤と褐色の筋に慄然とし、白い皮膚とそれらの対照に魅せられる。
「ん、うう…………」
鼓膜をくすぐるような甘い声に、侃爾の背筋が戦慄く。
この時間が長く続くのは色んな意味でまずい気がして、必要最低限の時間で患部を観察し、ガーゼを貼った。そうしたときには額は汗で濡れていた。十分に袖で拭ってからシイの顔を見上げると、潤んだ瞳と赤面を両手で隠して肩を震わせていた。