窓から漏れる光できらめく歓楽街の一角に、目的の喫茶店はあった。くすんだ赤いレンガ造りの、洋風な建物。表には出窓が二つ並び、どちらも繊細に編まれたレースカーテンが引かれている。
惚れ惚れと外観を眺めるシイの顔を、侃爾はじっと見ていた。未知に出会った子どものような、期待と興味を湛えた表情に、何故だか心臓の裏が疼く。悲しいのか嬉しいのか、自分の心情を言葉にできない。――じりじりと燃える不可解な炎が胸腔内を焦がす。
「行くぞ」
侃爾が出入口のドアの前にシイを立たせてドアノブを引くと、来客を知らせるベルがカランと鳴った。店の奥にあるカウンターから初老の主人が顔を出し、「おお、久しぶり」と目尻の皺を深くする。琥珀色の薄暗い照明の下、ソファーとテーブル、合わせて八席のうち半分が埋まっていた。
若い店員に案内され、壁沿いのソファー席に座る。シイは店内に入ってから座すまでずっと内装に目を奪われていて、感嘆に息を吸い上げる音だけが静かに伝わってきた。
「そんなに珍しいか?」
店員が置いて行ったメニュー表をシイに向けながら、侃爾は頬杖をつく。
シイは我に返ったように肩を跳ねさせてから、「はい」と頷いた。
「こんなに美しい……天国みたいな空間がこの世にあるなんて、初めて知りました」
うっとりとした声を、侃爾は視線は合わせずも心地良く聞いていた。
美しい、か。
彼は見慣れた店内を見渡した。舶来ものの色鮮やかな雑貨や曲線的な造りの調度、色ガラスが嵌ったランプなど、この異国感のある空間は、確かにシイの生活する環境の中には存在しない、珍しさの塊なのかもしれない。しかし侃爾はこの店をたったの一度も『美しい』と思ったことはなかった。今まで連れて来た女も、ここまで初心な反応はしなかったように思う。
「すごいです。夢のようです」
シイは尚も喜色を露わにする。
そして興奮した様子で喋り始めた。
「この紅い革張りのソファーの深い発色と色褪せた感じ……。それを留めている鋲が寸分の狂いもなく一定間隔で並べられているところ、とても素敵です。椅子やテーブルに施された意匠はこの国のものとは全く異なりますね。木目を活かした造りと手触りの良さ、……繊細な彫刻も上品です。あそこの棚のお人形はガラスを嵌めたような青いお目目が大きくて可愛らしい……。隣のランプも、傘の鮮やかな色使いが奇抜で素敵です。このコップの飴色の発色も――――……」
「おい、分かった。少し落ち着け……」
舌に油を注したみたいに饒舌なシイを止めて、侃爾は呆れたように目を細くした。
「お前、こういうものが好きなのか?」
「え、あ……」
シイはようやく自分が柄にも無くはしゃいでいたことに気付き赤面した。
「ち、違うんです……っ。え。と、ものを作る仕事をしていると、同じように人の手が施されているものに惹かれてしまう……というか…………」
ごめんなさい、と手で顔を隠す。ちらりと見えたその手の中が赤く染まっていることに、侃爾は目敏く気付いた。喜んでいるところに水を差すようだが、一度波立った胸中をを収めることは出来なかった。シイの謝罪など耳にも入れず、細い手首を掴んで隠すように握られていた手を開かせる。
想像はしていた。しかし。
「うっ…………」
侃爾は一瞬で怖気に襲われ呻いた。頭頂部から血の気が引く。
雪のように白い手の平の、擦れて破れた皮膚の下からじわじわと血が滲み出ていた。
赤い。
赤い。
赤い。
赤くて、
痛い。
侃爾は前のめりのまま浮かせていた尻を、力無くソファーの座面に落とした。冷や汗を滲ませ肩で息をする彼を見て、シイが急いで血塗れの手を握り込む。
「だ、大丈夫ですか? 嫌なものを見せてしまってごめんなさい……」
心配そうな声に、項垂れていた侃爾が、
「いや、俺が悪い。そうだ、あれだけ転んでいたもんな。そうなるよな」
独り言のように言って、カウンターの奥にいた店主を呼んだ。いくつか頼みごとをして、席を離れたその人を見送り、視線を戻してシイを見た。侃爾のほうが痛みに堪えているような顔をする。
「足にも傷があるだろう?」
「あ、は……い」
「手当てをする。傷が汚れたままではよくない」
「私は、大丈夫です」
シイが表情を強張らせていると、白髪の店主が救急箱と濡れ布巾、黒のショールを持って戻って来た。
「一通りは揃っていると思いますが、また必要な物があればお声掛け下さい。……可愛らしいお嬢さんの体に傷が残っては大変ですから。侃爾君、よく診てお上げなさいね」
店主は柔和な笑みを浮かべてカウンターの中へ戻って行った。侃爾が何かぶつぶつと呟きながら席を立つ。シイもそれに倣おうとすると、侃爾に制された。
「お前はこっちを向いて座ってろ」
通路側に足を投げ出す体制を指示され、そのまま大人しくしていると、侃爾がシイの足元に片膝をついた。ヒェッと息を呑み仰け反ろうとする彼女の腕を押さえて、侃爾が地響きのような声で言う。
「手を見せろ」
しかしシイは応えなかった。
「いいから。俺はもう、……平気だ」