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第40話

 すでに日は暮れていて、端の欠けた月が藍色の夜を照らしていた。

 長屋の前で燐寸を擦る。煙草の乾いた苦味が脳内の粘着質な甘さを緩和させた。いまだに残る驚嘆がニコチンとともに指先を震わせる。

 仇の女になど口が裂けても言ってはいけないような言葉が、行き場を失くして体の中を巡る。

 月が雲に隠れて見えなくなると、途端に闇が深くなった。


「あの……」

 背後の戸が開いてシイが顔を出す。

「準備って、何をすればいいんでしょうか?」

 困ったような顔をして尋ねられ、侃爾は面食らった。

「女というのは外出時に着飾るものじゃないのか?」

 今まで関係のあった女は皆時間をかけて服を選び、髪を整えていた。普段洒落っ気のないシイでも、彼女曰く――ハイカラな店に向かうとなれば容姿を飾ろうという気にもなるのではないか、そう思ったのだが。


 日頃よく見る菫色の着物を着たシイは、

「あ、う、あの……着物を、これともう一着しか持っていなくて……。か、髪は、その……結べない、の、です」

 と途切れ途切れに呟いた。

 そのどもりようから切実さは汲み取ったが、疑問は残った。


「化粧で隠したから傷は目立たない。髪で顔を隠す必要は無いぞ」

 腰まで流した長い髪を顎でしゃくる。

 シイはイヤイヤをする子どものように首を振り、

「そういう理由では、な、なくて」

と切なそうに侃爾を見上げた。

「だ、だめなんです……こわ、こわくて……人から何て思われるか…………」


 みるみる瞳が潤んでいくのを見て、侃爾はこめかみを押さえながら制止するように手を前に出した。

「いや、わかった。隠したいものは誰にでもあるだろう。お前がそれでいいなら俺は何でも構わない。ほら、早く行くぞ」

 どんな事情や理由があるのかに興味が無いわけではなかったが、侃爾は気にしないことにして煙草を消し、歩み始めた。


 背後からシイの足音が聞こえてくる。しかし、表の道に出る前の路地でそれが聞こえなくなった。代わりに重いものが崩れるような音と、甲高い悲鳴が上がる。

 侃爾は脊髄反射のように振り返った。

 藍色の闇の中でシイが倒れている。

 傍には大きな木箱や木材がいくつも積まれていて、それに躓いたような格好で彼女は伏していた。


「……何やってんだ」

 侃爾の声に彼女はうつ伏せの状態から体を起こし、慌てて手の甲で右目を擦った。

「す、すみません」

 謝ると、着物の裾を直しながらよろよろと立ち上がる。呆れたように息を吐いた侃爾が歩き出すと、シイは歩幅の違う彼に合わせて速足でついてきた。





「……おい、わざとやってるのか?」


 表通りを歩きながら、シイは通行人やアーク灯をはじめ多くの障害物にぶつかり、――またはぶつからなくても、転んだ。不注意の範疇を超えているその行動に、侃爾は呆れを通り越し、冷淡な気持ちさえ抱き始めていた。転ぶたびに立ち止まり、奇異の目を向けられるのはシイだけで無く、同行者である侃爾も同様なのだ。


 足が悪いとは聞いていない。

 では何故?

 新手の嫌がらせか?


「ご、ご迷惑をおかけてしまい、申し訳ありません……」

 暗い顔をするシイが頭を下げる。

 長い前髪が右目に覆ったそのとき、あ、と侃爾は気付いた。


「お前、右目が悪いんだったな?」


 確信を持った侃爾の言葉に、狼狽したシイが口を半開きにしたまま頷いた。無意識に憂色を濃くした侃爾が言う。


「こんな暗い中で片目が利かないのでは距離感覚が狂って当然だ。何故先に言わない? 手も足も傷だらけだろう。もう一人で歩くな。ああクソ。こんなことにも気が付かないなんて馬鹿か俺は……」


 目の前で独り言を唱える侃爾を、シイは不思議そうに見ていた。そして侃爾が差し出した手に、「え……」と当惑を重ねた。

 侃爾はその硬い指でシイの右腕を掴み、己の腕に絡めるように促した。

 ヒイッ、と叫んだシイを、擦れ違う人々が振り返る。


「掴まっていろ。もう転ばれるのはごめんだ」

 平然として侃爾は逃げようとするシイを捕らえる。

「あ、あ……これは、嫌、……です。私は大丈夫ですから……」

「何度も転んでおいて何が大丈夫だ。安心しろ、俺はお前みたいに何も無いところで転んだりしない」

「ち、違うのです……ああ、うう……」


 言いたいことが言葉にならないシイを無視して、侃爾は彼女の手を、己の腕と側腹部の間にガッチリと挟んで歩き出した。引っ張られて、シイも足をもつれさせながら前に進む。


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