赤と藍が混じる夕刻。
侃爾は着替える暇も無く寮を出た。
呼んでも反応の無い家主の鈍さに溜息を吐きながら玄関の戸を開ける。施錠されていないそれは重い音を立てたがシイは出て来ない。仕事をしているのだろうが、相変わらず不用心で呆れる。
靴を揃えて障子戸を引くと、やはり彼女は背中を丸めて文机に向かっていた。こちらに体を向けているはずなのに、部屋に入っても侃爾の存在に気付かないシイに、彼はゆっくりと近づいて行く。音を立てずにしゃがみ込む。手を伸ばせば触れられる距離。
侃爾は静かに息を吸った。
「……おい」
「きゃあああっ!!!」
掛けた声が終わる前に上がった悲鳴に、侃爾は反響する右耳を押さえながら眉を寄せた。
シイは飛び上がるほどの動揺に息を詰めていたが、声の主が侃爾だと分かると強張らせていた体から力を抜いた。
「まるで不審者扱いだな」
言いながら侃爾は、己がシイにとってそれと大きく違わないのだとと思い直す。
しかしシイは頭を振って何度も謝罪を口にした。
「すみません、驚いただけなんです……。ふ、不審者だなんて、思ってません」
本当です、と念を押す。必死な様子に侃爾は内心複雑な気持ちになっていた。
自分を傷つけるだけの男などシイにとっては不審者よりもたちが悪い、――害悪でしかないはずなのに、受け入れようとする理由が分からなかった。しかし、真意を探るように彼女の双眸を見ても、真っ直ぐに侃爾を射貫く視線の向こうに嘘が含まれていないことは明白だった。
「わかった、それはもういい。仕事は終えられそうか?」
乱れた文机の上を指差すと、シイが持っていた筆を置き頷いた。
侃爾は学生服のポケットに手を入れながらその場に座り込む。
「では少し顔を貸せ」
「でももう、傷は塞がって…………」
「わかっている。そうじゃない。こっちだ」
手の中を見せるとシイは目を丸くして心底不思議そうに首を傾げた。
侃爾がポケットから出したのは、華やかな絵柄の描かれた化粧品だった。
「大して変らないかもしれないがな」
言いながら、侃爾が小ぶりな瓶の蓋を回して、シイに傍に来るようにと視線を動かす。その指示の通りに、シイは文机のわきを通り抜けて侃爾の前に膝を揃えた。侃爾が己の無骨な指に、瓶の中身――とろりとした白い液体を注ぐ。そしてそれを繊細な動作でシイの頬に乗せた。
クリームの冷たさにシイは一瞬体を揺らしたが、すぐに傷の処置と同様の仕草で目を伏せた。
ケロイド状になった傷の具合を一つ一つ確かめながら塗っていく。
顔の右半分を隠す髪をよけると、形のいい額と薄い瞼が露わになった。
ぬるぬると指を滑らせる。
シイはまるで侃爾に心を許しているかのように、されるがままだ。
指が同じところを往復する。
永遠に続く夢を見ているような気分で彼女に触れていた。
しかし、信念に相違するような軟弱な思いを、侃爾は良しとはしなかった。
手放し難く感じながらも、何気無い手つきで塗布を切り上げ、白粉の缶を開けてパフに含ませる。『決してつけ過ぎないように』とルカに言われた通りに、力を入れないようにしてシイの顔に叩き、さっと終わらせてスティック状の口紅を開けると、薄く瞼を上げたシイと視線が合った。
「…………もう、終わる」
「あ、……はい」
「口、開けろ」
ぎこちないやり取りの後、シイは言われた通り控えめに口を開いた。侃爾は彼女の顎を指で掬い上げて、もう片方の手でそっと口紅を塗り始めた。
「ん、う……」
シイがぎゅっと目を瞑って唇を閉じる。
「おい、閉じたら塗れないだろう」
「あ、で、でも、無理です……。は、恥ずかしい」
侃爾は口紅を浮かせたままで「恥ずかしくないだろ、別に」とひとりごちる。
すると涙目のシイが、自分の右手の中指を侃爾の下唇の端にそっとあてた。
突然の出来事に侃爾の思考と動作が止まる。
「な、何を…………」
「こう、ですよ?」
おずおずと、彼女の細い指が侃爾の下唇を滑り反対の端へ。そのまま上唇もなぞって、一周回って元の場所に戻って来た指が離れると、侃爾の全身は粟立ち、腹の底ではゾクゾクと不穏なものが湧き上がっていた。
熱い鉄球のようになった心臓が激しく胸骨を叩く。
眼前で、くすぐったいでしょう? というふうに首を傾げられても、侃爾は答えられなかった。
戸惑いを隠すように下を向き、荒れた呼吸を整える。
対してシイは何でも無い様子で、
「これ、じ……自分でやってもいいですか?」
と眉尻を下げる。
困惑を隠すためにどこか物騒な形相になった侃爾が無言で口紅を差し出すと、シイは食器棚から出してきた手鏡を見ながら器用に唇を彩った。そして照れたように侃爾を見て、唇を左右に引き伸ばして見せた。
傷を隠した白い肌に、鮮やかな紅が恐ろしいほどに映えていた。
「似合わない、ですよね……」
恥ずかしそうに目を逸らすシイを、侃爾は穴が開きそうなほどに見つめた。もともと端正な顔をした少女だった。無数の傷と暗い表情で霞みがかっていたが、こうしてみれば渇望してしまいそうなほど美しい。
「……まあ、いいんじゃないか」
胸の内側をほんの少量を掬い取り、侃爾は精一杯の称賛を送った。
俯きがちなシイの口角が微かに持ち上がっているのが見えた。
このままだと何かに負けてしまいそうだった。冷静になるために、外で煙草を吸っているから準備ができたら出てくるように、と伝えて立ち上がった。
シイはぼうっとして気の抜けたような返事をしたが、振り返らずに靴を履いた。