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第38話

 西日が俯いた彼女の顔に濃い影を作る。

 侃爾は己の胸に、シイのところへ訪れた理由を自問した。

 しかし深い考えなど無かった。

 気の向いた方向へ進んてみたらこの場所に辿り着いた、というだけ。――少なくとも侃爾はそう思っている。だからシイの問いには答えられなかった。


 侃爾が口を開かないでいると、シイが上目遣いに彼を見て、彼の手から紙の束を受け取った。

「これ、そ、そのままでいいですから。侃爾さんは気に、しないで、下さい」

 菫色の胸の前で握ったそれがぐしゃりと潰れる。

 細く揺らいだ声が、彼女の傷心を雄弁に語っていた。

 侃爾は淡い青をした空に細く煙を吐いた。


「こういうものを好きで貼っておく趣味でもあるのか?」

 シイの手から再び悪意の塊を掠め取る。そして紙の角に煙草の先を寄せ、ぼうっと赤い火が上がると平然と地面に落とした。シイが「きゃあ」と腰を抜かして倒れ込む。


「か、火事……!」

 泣きそうに後退るシイを見て、侃爾はひそかに息をついた。火を恐れるというありふれた反応が、とても人間らしく思えた。あたふたとしているところがまた愉快ですらある。暫く観察していたが、火の前で座り込んでいるシイの身の危険を考えて手を伸ばした。


「燃え移りそうなものは無い。燃えるとしたらお前くらいだ」

 言いながらシイの腕を掴み引き上げる。紙は黒く崩れ落ち、冷たい地面に馴染んでいた。火の気はもう無い。


「だ、大丈夫、でしょうか……?」

 侃爾を見上げるシイの瞳は濡れている。

「大丈夫じゃないか?」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、多分な」

「ううう……」


 侃爾はあまりに自然に己の胸にくっついているシイの体を意識しないようにしながら、喉元に触れそうな彼女の顔を見下ろした。開け広げたままの傷の多くは赤いケロイドになっていた。額の傷だけはまだ抉れたままだが、快方には向かっているように見える。


 シイはやはり怯えたように燃えカスを見て両手を伸ばしたり縮めたりしている。

 狼狽するその様子が可笑しかった。思わず鼻から息を漏らした侃爾に、シイは気付いて困ったように眉を下げた。普段表情筋が死んだような顔をしているから、素直な反応は新鮮で悪くなかった。他にはどんな顔が出来るのか好奇心が湧いた。

 侃爾はごほんと一つ咳払いをした。


「大丈夫だ。もう火は消えているから。それよりお前、明後日は空いているか」

 シイは涙目を瞬かせて首を傾げ、おかしな方向に頷いた。

「喫茶店に行くからついてこい」

「…………へ」

 シイは大きな瞳をますます大きくしたまま時を止める。

「喫茶店だ。暇なんだろう?」

「ひ、暇……ですけど、あ、わ、私、などが…………ああ、うう……」


 しどろもどろな返事をするシイに、侃爾はひそかに胸が弾むのを感じていた。彼女の表情変えているのが己の言動だと思うと喜悦の情が湧き上がってくる。しかし至って平静を纏ったまま「無理強いはしない」と呟いた。シイに負担を掛けたくないというのは確かな本音であった。

 しかしシイは微妙に低くなった侃爾の声色を深読みしたらしく、今度は悲しそうに顔を歪めて、

「ち、ち、違うんです」

と厚い胸板に縋った。


 突然の接触にドキリとする。


「そ、そんなハイカラなところに、行ったことが無いんです。しかも私のような者が……一緒にいたら迷惑を、かけます」

 鈴が小さく揺れるような声が、侃爾の心臓の前で鳴る。彼の着物を握るシイの手は震えていた。


「傷が気になるのか? ならば隠せばいい。どうせお前の人生で一度きりの経験になるんだ。構わないだろう?」

 侃爾には、こう言ってしまえばシイは折れる、という確信があった。予想通り、シイは降伏の意を表すように俯き、侃爾に触れていた手を力無く引っ込めた。

 冬の寒さの和らぎを感じさせる風がシイの髪を揺らす。

 侃爾は燃やしたものを踏み潰して、シイに向き直った。


「明後日の夕刻に迎えに来る。ちゃんと待っていろよ」

「は、はい」

「じゃあ」

「……はい」


 どこか寂しそうにシイが見上げるので、侃爾はまるで当然のように手を伸ばした。それはシイの頭のてっぺんに着地し、耳を擦り、頬を包んだ。豊かでは無いが柔らかい感触。徐々に赤く、熱くなっていく肌が手の平に溶け染み込んでいく。――そんな錯覚するほど、シイの頬は侃爾の肌によく馴染んだ。恍惚としてその感触を確かめていると、シイが子犬のようにプルプルと震え始めた。


「ああ、無遠慮に悪い」

「あ、う……あ…………」

 言葉にならない呻き声を上げて、シイは頬を隠すように両手で抑えた。徐々に暗くなってゆく空の下でも、その顔が火照っているのが分かる。離したシイの体温が、侃爾には名残惜しく感じた。


 ――――初子に触れたときはこうでは無かったのに。


 後に残る寂寥。開いた手の平に感じる空しさ。

 侃爾はシイに背を向けて踏み出した。

 そして僅か数歩の後に、引かれたように振り返った。


「……早く家に入れよ」

 シイは見送ったままの姿でそこにいた。

「あ、うう、はい……」

 再び歩き出す。


 また立ち止まって後ろを見ると、シイはやはり戸の前に立っている。

「見送りは要らない」

「す、すみません……」

 頭を下げるシイに、侃爾は鼻を鳴らして口の端を上げた。


「明後日、忘れるなよ」

「……は、はい」


 侃爾の歩幅に合わせて影も動く。

 いつまでも戸を引く音は聞こえなかったが振り返らなかった。

 振り返っては、帰れなくなる気がした。


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