「何それ、傷付く。私だって望んでこう生まれたわけじゃないのに。私もあなたみたいに出来のいい人間になりたかったよ」
侃爾は縁の欠けたティーカップに口づけ、音を立てないようにコーヒーを口の中に流し込んだ。
「羨ましいなあ。私もまともな人間に生まれて、誰かのお嫁さんになりたかったなあ」
「それが叶わないかどうかはまだ分からないだろう」
不出来でも見目はいい女を娶りたい男など無数にいるだろうと侃爾は思う。
初子は勢いをつけて起き上がり、再び鉛筆を持った。手の――ちょうど紙と擦れるところが汚れている。しかし気にもせずにまた座卓に向かう。
「うん、頑張ってれば運命の人が迎えに来てくれるかもしれないよね」
すでに書くところが無い黒い紙に僅かな隙間を見つけては、初子は覚えた平仮名を書き込んだ。
侃爾は幼い頃に清那の手習いを見ていたことを思い出しながら、彼女の様子を静かに見守っていた。そのうち腹が空いたと情けない声を上げたのでそば屋へ出掛けた。
侃爾は初子より先に食べ終わると、向かいでもぐもぐ口を動かす彼女に真剣な顔で言った。
「うちの弟のところへ勉強を教わりに来ないか?」
「おと、うと?」
初子は初めて聞いた単語のように反復して、そばを口から垂らしながら瞬きをする。
「そうだ。隣町にある実家にいる。君みたいなやる気のある奴は歓迎されるだろう。とりあえず会ってみないか? きっと同じくらいの歳だろうし、気が合うかもしれない」
「私、二十六だけど。同じくらいかしら」
初子の年齢を聞いて侃爾は驚いた。己よりも六つも年上だ。
幼い顔立ちと喋り方のせいで惑わされていたが、、凹凸のある豊満な体型からは、成熟した女の香りが確かにしていた。侃爾は気を取り直すように咳払いをして、「弟はもう少し若いが、大人びている奴だから大丈夫だ」と口元を手の甲で隠した。
「この後は空いているか? よかったら一緒に……」
「行くっ!」
初子は店内に響き渡るような大声で叫び、身を乗り出した。
目が爛爛としている。
侃爾が呆気に取られていると、彼女はふんと鼻から息を吐き出すして、再び「行くっ!」と声を上げた。
「こんな幸運滅多に無いわ! おにいさんありがとう! 喜んでついて行きますっ」
初子の周囲への影響を度外視した声量に、侃爾は思わず顔を顰めた。
客に注目されていることが気まずい。彼女の丼が空になっているのを確認し、すぐに手を引いて店を出た。道に立つと、温まった体にほどよい冷気が心地よい。
鼻息荒く興奮した様子の初子を連れてバスに乗った。
隣に座りながら彼女の不遇な幼少期の話を聞いているうちに目的の場所でバスが停まり、二人は田園風景の広がる町の外れまで歩いた。広い田畑に囲まれて、その和洋折衷住宅は堂々と構えていた。生垣に沿いながら歩き、門に辿り着く。
初子は物珍しそうに建物を見上げて、「お金持ちなんですねえ」と呟いた。
「そこまでじゃない。さあ、入って」
侃爾が門扉を開けて中へ導く。敷石を踏んで玄関戸を開けると、床板を叩きつけるような音が二階から下りてきて、目の前に泣き顔の女が現れた。
草履をつっかけて逃げるように外へ出て行く。
見覚えは無いが、直感的に清那の教え子だと思った。女は乱れた髪の下でうなじを押さえながら、着物の裾を蹴り飛ばして駆けて行った。
初子は驚いたように逃げた女を目で追い、そして不思議そうに侃爾を見た。
「弟の客だと思うが、仲違いでもしたんだろう。あんなに取り乱して、みっともない」
顔を合わせていると、前掛けを垂らしたルカが飛んで来た。騒々しさを物ともしない鷹揚な笑顔を浮かべて、
「おかえりなさいませ、侃爾様。あら、随分可愛らしい方を掴まえましたね」
と初子を見る。
侃爾はすぐに、「そうじゃない」と目を半分にした。
「清那の客だ」
「あらら、そうですか。自室にいらっしゃいますよ。ちなみに奥様はご友人の方とお出掛けしていらしてご不在です」
「暢気だな」
「いつもご機嫌でいらしていいと思いますけどね。ああ、お待たせさせてしまってごめんなさい。熱いお茶をお持ちしますね」
ルカが初子に微笑み掛けると、初子も嬉しそうに口角を上げた。