胸を触っていたはずの手はいつの間にか空を掴んでいて、自覚するほど体はその気を失くしていた。
侃爾は女給の肩をそっと押して「悪い」と目を逸らした。頭の中を占拠していたのは、彼女との交わりへの期待では無く、ここにいない女の面影だった。女給はつまらなさそうに唸ったが、すぐにニコニコとして電気を消し、布団の中に潜り込んだ。
「明日はお仕事お休みなんだあ」
侃爾に抱きつきながら女給が言う。
「ねえ、おにいさん。字ぃ書けるでしょ? 私に教えてよ」
「君、書けないのか?」
「うん。読むのはちょっと出来るんだけど、書くのはさっぱりなの」
「しかし尋常(小学校)は出てるだろう?」
「それでも駄目だったの。私、出来が悪くて。ね、いいでしょ?」
女給の言葉にもやもやとしたが、恩義もあるし断る理由は無かった。
「やったあ」
耳元で聞こえ始めた機嫌のいい鼻歌とは反対に、侃爾は己の鈍感さを悔いていた。女給の仕草や言動は、これまで清那に紹介してきた女たちと極めて似ていた。それは侃爾にとって間違い無く嫌悪の対象だった。しかしくっついてくる女を無理矢理引き剥すような真似も出来ず、侃爾は険のある表情を浮かべたまま天井を見上げた。
それなりの築年数は経ていそうだが、汚れの無い板張りだった。
「明日が楽しみ」
そう言い残して、女給はぐうぐうと寝始めた。
暢気な様子に毒気を抜かれる。
剥き出しの肩に布団を掛けてやり、女給の顔をまじまじと観察した。化粧の施された肌には傷一つ無い。唇は口紅で赤く染められ、潤いと張りがある。
彼女の体からは生命力が溢れていた。
しかし、――シイは、こんなふうじゃなかった。
そういう健全さが枯渇していた。
いつの間にかふっといなくなってしまいそうな儚さしか無い。
侃爾は寝返りを打って女給に背を向けた。目の前の女を差し置いて、別の女のことを考えるなど不誠実だと思った。硬く目を瞑り、空っぽな闇に意識を投じる。夢と現を行ったり来たりしている間に、抱き締めたシイの感触を思い出していた。
「難しいねえ」
と苦笑いする女の隣で、侃爾は温かい珈琲を啜っていた。
「『め』のここはバツにするんだ。こうして」
「こう?」
「……何だか不格好だな」
「もう、わかんなあい」
座卓から離れ、後ろに倒れ込んだ女給――初子(ういこ)が寝そべりながら、侃爾の腰に抱きついた。侃爾はそれをさりげなく手で払う。
「私ってすうごい馬鹿なのかなあ」
初子が悩ましげに呟く。
視線は明るい窓の外を向いているが、未だに両手は侃爾の腹をまさぐっている。
「まあ、よくは無いだろうな」
侃爾の遠慮の無い返しにううん、と唸った初子は「こうだと生きにくいよねえ」と平時の柔らかい声のまま自嘲気味に言った。
「どうして神様は人間を平等に作らなかったんだろうねえ。お金が無くて飢えてる人は可哀想。私みたいに馬鹿で人に馴染めない人も可哀想。そうじゃない?」
問いを向けられた侃爾は考えた。
平等で無いのは仕方が無いことだ。
そう生まれたらそうなりに弁えながら、他人に迷惑を掛けないように生きるしかない。
そういう星の下に生まれてしまった自分を呪いながら、差別も侮辱もすべて受け入れるしか無い。
可哀想、であるのは仕方が無い。
――侃爾はそう答えた。
女は唖然として侃爾の腰にまとわりつかせていた手を放し、すんと鼻を鳴らした。