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第34話

「ここから近いの。泊まって行って」

 女給の言葉に侃爾は目を丸くする。


 女と戯れるこういった場所で、誘いが掛かることは珍しいことでは無い。現に級友の何名かが「あそこの店の某は尻軽だ」「どこの女給は具合がいい」などと俗な話をしているのを聞いたことがある。しかし強面で堅物な印象を持たれる侃爾は女のほうが萎縮し、店外まで誘われたことはこれまで一度も無かった。


 薄暗い照明の下でも女中の相貌は蜜のように甘く、優しげながら色香があることが分かる。僅かに崩れた衿から覗ける細い首と真っ直ぐ通った鎖骨が艶めかしい。

 侃爾は唾を飲み込み決心を固めた。


「じゃあ、すまないが……」

「やったあ! ついてきて!」


 女給は幼児のように飛び跳ねて侃爾の腕を自分の方に持たれ掛けさせ、カウンターの上にあった鍵の束を引っ掴んで裏口から外へ出た。

 雪を乗せて、ひゅうと冷たい風が吹き付ける。

 侃爾は己を支えながらノシノシと歩く女の強力と、大らかな性質を心底羨ましく思いながら、されるがままに引き摺られた。

 ほんの数分のうちについた床屋の二階に上り、人の気配の無い部屋の戸を開けて「ただいまあ」と叫んだ女給は、真っ先に侃爾の体を敷きっぱなしの布団の上に落とした。


「待っててねえ、お水持ってくるから」

 言って、機嫌良さそうに女給は部屋から出て行く。

 薄い布団の上に転がされた侃爾は彼女がいない間に、気怠い体を起こして室内の様子を窺った。座卓の上にはいくつもの化粧品が転がり、畳には汚れた舶来ものの人形や食べかけの駄菓子、何某かの絵や模様が描かれた紙類が足場が無いほど撒き散らされていた。

 あまりの無法地帯に侃爾は眉根を寄せる。


 乱雑な景色から目を逸らして頭上を見ると、吊りランプの光が目に刺さって眼球の奥がじんじんした。堪らず腕で庇を作る。そうしているうちに軽い足音が近付いてきて布団の前で止まった。


「はい、どうぞ」

 視線を向ければ、なみなみと水を湛えたコップが女給の手によって差し出されていた。

 侃爾は穏やかに微笑む彼女に礼を言い、零さないよう注意しながら少量を口に含んだ。口内が潤ったことに満足してコップを返すと、女給は侃爾の飲みさしを勢いよく飲み下し、空になったそれを畳の上に放った。

 侃爾の顔に影が落ち、視界が女中の顔で埋め尽くされる。

 唐突に腹の上に跨った彼女に、侃爾は顰め面をして見せた。


「……重い」

「私、おっぱいが大きいからねえ」

 からかうように口角を上げる女給。


 腹を圧す柔らかな感触。豊かな胸の膨らみとくびれた腰。滑らかな肌理。

 男を惑わすには十分に魅力的な体をしていた。隙があれば食いつきたくなるような上玉のはずだった。しかし侃爾はその体に馴染みの悪さを感じていた。見上げた天井も女給の姿もどこか違う世界のもののように見える。


 女給の両手が侃爾の頬を包む。

 ゆっくりと顔が顔が近付いてきて、唇にぬるりとしたものが触れた。

 彼女の舌が含みを持って侃爾の下唇を舐め始める。


 ちゅ、ちゅ、ちゅ。


 唾液に濡れた唇で角度を変えて何度も接吻をされ、侃爾は冷えた頭蓋の中に燐寸を擦るようにそれに応えた。


「おにいさんの口あったかいねえ」

 息継ぎをしながら女給がうっとりと言う。

 二人の間に漂う雰囲気は確実に、――少なくとも女の方はそう確信している――そういう方向へ向かっていた。


 侃爾のほうも女給の舌を吸い、水で冷えた口内の粘膜を擽る。そのまま背中に手を回して帯を緩めてやると、女は楽しそうにうふふと笑った。彼女はされるがままに衿を乱されても一寸の怯えも見せない。それどころか無邪気なふうに侃爾の股間を膝で撫でる。


「まだ小さいねえ」

 昂り始めている気がしたが、体の反応は悪かった。疲労と酒のせいだと言い訳をして、それでも己の矜持のために女給の胸元をまさぐる。溢れた出た豊満な乳房に手を這わせてその中心を指先で捏ねると、女給が高い声を出した。

「やあん、すけべえ」

 高揚した子どものように笑う彼女を見ながら、侃爾は不健康なほど肉付きの悪い女を思い出していた。どこもかしこも折れそうに細く、髪はぎしぎしと艶が無い。肌は青白く、無数に走る顔の傷だけが嫌に目立ち、笑顔などほとんど見せない。それから――。


「ちょっとお、目ぇ開けたまま寝たの?」

 目の前にあった女給の唇が尖っていた。


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