己の上に降ってきた布団を掴んで凄むと、シイはおどおどとして、
「さ、寒そうだったので、あた、温かく、と……」
と視線を彷徨わせた。
確かにぬくい。
綿の温かみというよりも、先ほどまで彼女が纏っていたために含まれた熱が十分に籠っている。
侃爾は仇に施しを受けた屈辱感と、反してぬくもりに喜びを感じる自身のままならない体に奥歯を噛み、布団をシイに返すために腕を伸ばした。
「いいですから、つ、使って下さい」
「要らん。そんなに軟弱な体はしていない」
「風邪をひいてしまいますから……」
「お前が心配することじゃない」
「で、でも……あ、では、あちらのお布団に戻られては……」
「それは」
…………その通りだ。
何も同じ部屋で寝る必要など無いのだ。
侃爾はそう思い直し起き上がろうとしたが、布団のほどよい重量とぬくもりがそれを遮った。
ついでに持て余した眠気と気怠さが、起きなけらねばという気持ちを揺るがす。
シイはおろおろと当惑した表情で侃爾を見下ろしていた。黒々とした長い髪が見えない右目を隠し、くすんだ白い浴衣が彼女の華奢な細い輪郭を浮き上がらせている。つつけば死んでしまいそうなか弱い姿かたちに、何を恐れ、忌避する理由があるのか。この夜、この世に在るすべての中で、シイが最も『無害』であるという錯覚すら覚えるのだ。
侃爾はじっと彼女を観察する。
シイの視線も侃爾を向いているが、侃爾を透かしてどこか遠くを見ているような瞳をしていた。
気付いたときには手を伸ばして、シイの肩を引き寄せていた。姿勢を崩したシイは驚いた顔で侃爾の胸の中に落ち、そしてすぐに体を起こそうと腕を突っ張った。
しかし侃爾はがっしりとシイの背中を抱きとめる。
「やっぱり寒いな」
そう彼女を己の上に縫いつけた。
「や、あ、の、ど……っ」
動転したシイが身をよじる。
「別に獲って食ったりはしない」
「で、でも、ば、バイキンが……って…………」
「そんなに軟弱じゃないと言ってるだろう」
腕の中のシイは訳が分からないというように顔を青くし、泣きそうに目を潤ませた。
清那が落ち込んでいるときは、こうして一緒に寝たものだったが――……と侃爾は怪訝そうに唇を尖らせる。弟にしていたようにそっとシイの後ろ髪を撫でると、彼女は尻尾を踏みつけられた猫のように甲高い悲鳴を上げた。
「は、う……、こわい……こわい、です」
狭い空間に引き攣った声はよく響く。
「俺のことか。まあ、そうだろうな」
自分を傷つけようとする相手が傍にいたら怖いだろうと流石の侃爾も思う。
しかし平然と返しながらも、侃爾はひそかに傷ついた。
「あ、ち、違うんです。こんなこと、を誰にも……親以外には、さ、されたことが、なくて」
シイが侃爾の腕の中で居心地悪そうに手を揉む。
「許されません、…………こんな、こと」
言いながら顔を伏せると、シイの丸い額が侃爾の胸にくっついた。頭蓋と脳が軽いのか――ふんわりと当たる感触が何故だかもどかしい。深い意図も無く抱く力を強めると、彼女の顔がすっぽりと侃爾の胸の中に埋まった。
「気持ち悪いのならやめるが。別に、人生に一度くらい他人に慰められるのも悪くないだろう? どうせ――……」
すぐに、死ぬのだし。
思い浮かんだ言葉に侃爾の心臓はチクリと痛んだ。
シイは息継ぎするために顔を上げて、今度は頬を赤らめて眉尻を下げた。
「ゆ、許して下さい」
「……それは、嫌だから離せということか?」
「い、いえ、こうして、……優しさに甘えてしまう、こと」
シイの言葉に侃爾は瞬きを忘れた。
ドキリとした。
異性として、もしくは、年長者としての血が燃えたと言って間違いない。沸騰した血液が体温を上げていく。
ひくつく口角から狼狽が悟られぬよう、シイの骨ばった肩に鼻先を押しつけた。「ひぃっ」と上がる情けない声。花のような甘い香りを鼻腔いっぱいに吸い込めば、のぼせ上った思考が僅かに温度を下げた。
「別に俺だって、孤独で貧しい女に情けを掛けないほど非道じゃない。どうせ先が短いなら、色々経験してみたっていい……だろ」
侃爾の先細りした台詞に、シイは押し黙った。
一瞬の間、彼女の表情が曇る。
しかしすぐに「そう、……ですよね」と微笑んだ。
何かを――否、すべてを、諦めたような表情だった。
互いの体の上に布団を掛けて寄り合うと、寒さは微塵も気にならなくなった。むしろ暑いくらいだったが、それでも離れることはしなかった。まるで抵抗感無く触れ合えたことが侃爾には不思議に思えた。
シイは戸惑っていたふうではあったが、心臓の音を聞かせてやるとすぐに体の力を解いた。寝顔がまるで幼子のようで、好奇心からガーゼの無いほうの頬を優しく撫でると、やわい餅のような感触がした。
静まり返った室内で、侃爾は天井に向かって溜息を吐いた。
手にかけなくても勝手に散っていく儚い体は、まだ霞でも幽霊でも無く、確かな肉体を持っている――強烈にそう実感してしまった。
伸ばした腕の上にある頭の重み。
静かな寝息。
色の悪い唇。
いつまでも眺めていた気もするし、いつからか夢を見ていた気もする。
明け方。
薄い眠りの末に目を覚まし、ぼやぼやと寝起きの悪いシイを連れて町の北にある林へ向かった。そこに猫を埋めた。できるだけ日当たりの良さそうな場所を選んだ。
土を被せる前にシイは猫に「ありがとう」と言葉を掛けた。
昇り始めていた陽は山の稜線を離れ、彼女の目から溶け落ちる涙の粒をきらめかせていた。