すべての指で首の全周を覆い、未だに躊躇しながらも力を込める。すぐに頸動脈が拍動を止めた感触がして心が怯んだ。しかし覚悟を決めて体重を掛ける。シイは場違いに安心したような表情で瞼を伏せた。夜気に包まれた室内で、拭いたいほどの汗が額に滲む。
そのとき、何故か走馬灯のようなものを見た。自分のものでは無い。シイの悲愴な人生を妄想し、時系列も無く切り貼りしただけの都合のいい紙芝居であった。
生まれ落ちてからこれまで、幸福を感じたことが一寸でもあっただろうか。
長い間、忌避され虐められて過ごし、そのまま死んでいくことの不幸を、彼女はどう感じているのだろうか。
要らぬ憂慮であった。
そのまま絞め殺してしまえばいいのに。
侃爾は後悔することを恐れてしまった。
我に返って、顔を紫色にして動かなくなったシイの首から手を離した。
焦燥感に駆られるまま肩を揺さぶり名を叫ぶ。
シイは突然気管に流れ込んできた空気に噎せ込み激しく胸を上下させると、呆然と侃爾を見上げた。うっすらと開いた唇からは声が出なくても、「どうして止めるの?」と言っているのが分かった。
侃爾は一寸でも殺人を試みようとした己の狂気を、肩を上下させながら吐き出す。
シイの首に纏わりついている赤々とした自分の手形を見ると、胸の中を鋭い爪で引っ搔かれたようにズキズキと痛んだ。頭の中は真っ白だった。それでも何か、止めた言い訳をしなければいけない。侃爾は俯いて視線を逸らした。
「別に、こんなの本気じゃない。少しからかっただけだ」
我ながら苦しい弁解だった。
しかしシイは力の入らないような指先でいとおしげに自分の首を撫でて「侃爾さんは、優しいから」と嗄れた声で囁いた。その仕草と言葉に、侃爾の罪悪感はじくじくと刺激される。
思わず舌打ちをして彼女の上から退いた。ひどい疲労感を感じて布団の横にごろりと仰向けになる。シイはそんな侃爾の行動を視線だけ向けて見守っていた。
侃爾が天井の板に出来た染みを見つめながら重い口を開く。
「――報復するか?」
「……え?」
吐息だけのか細い声でシイが首を傾げる。
「猫を殺した奴らに。同じような目に合わせてやりたいと思わないか?」
染みはどこの国の地図にも似ていない。
興奮が覚めた後の脱力感に身を委ねながら、ぼんやりと侃爾は問う。
シイも侃爾と同じように天井を見上げた気配がした。
「優しいあの子は……、それを望むでしょうか。辛く、悲しむ人が増えることを、願うでしょうか。……私には、そうは、思えないのです」
そう信じたい。信じている。
掠れた声には強い思いが籠っていた。侃爾は彼女の珍しい態度に驚嘆し、まじまじとその顔を見る。シイは僅かに頬を緩めながらも、
「それに、私は弱っちくて、力では敵いませんので」
と憂いを含ませて言った。
愛しい存在を傷つけられたのはシイと侃爾は同類だ。しかし彼女は仇討ちをしないと言う。侃爾にはその寛容な、または臆病な、思考が理解が出来なかった。
約二週間シイと関わり、随分近くで彼女の言動を観察してきた。
すると想像していたより辛抱強く、手先が器用で、気配りができ、心根が優しい――という実像があることが分かった。その面だけを見れば、弟に大怪我を負わせるような人間には思えない。しかし事実としてそういう事件はあったのだ。その凶悪な行為にどんな理由があったのかは知らない。シイ本人が黙秘を貫いた。というか、当時、彼女は怯えたように泣くばかりで話にならなかった。だから侃爾には憎しみと復讐心だけが湧き上がった。
それは今でも変らない。
……なのに、少しだけ決意が、――自分の信じてきた正義が揺らいでいた。
「それで心は晴れるのか?」
侃爾が訊くと、シイはまた自分の首を擦って、
「私は、晴れなくて……いいんです」
とやるせなさを孕らませながら微笑んだ。
「悲しいときは悲しくて、寂しいときは寂しくて、いつまでも立ち上がれなくて構わないんです。寧ろそういうものを溜め込んだほうが、早く楽になれれるんじゃないかって、思うから……」
侃爾は返答に窮した。
シイの言うことが理解出来なかった。
いつも、ひどく破滅的なのだ。彼女の言葉は。
自分にも未来にも一寸の希望を抱いていない、目の前の『死』を受け入れた者の諦観。
自分が学ぶ医学の前には『生きたい』と願う患者がいる。何者も受け入れ治療する義務が、医者にはある。では『生きたくない』と願う者にはどう振る舞えばいい。
死を望む仇討ち相手に対して、己はどうしたらいい――――。
侃爾は熱を噴きそうになる脳を休める意図を持って目を閉じた。
不快な汗が引いて、冷えてきた体がぶるりと震える。
矢庭に隣で布の擦れる音が聞こえた。瞼を閉じた代わりに敏感になった聴覚が、綿入りの布団が持ち上がる音を拾う。
突然、乾いた音を立てて重みのあるものが落ちたてきた。
己の体が柔らかなぬくもりに包まれたことに驚き、反射的に目を開ける。
見上げた先には、慌てた表情で侃爾を見下ろすシイがいた。両手が中途半端な高さで浮かんでいる。
「何のつもりだ」