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第30話

 湿っぽい気配、と形容する他無い。

 そんなものを感じて侃爾は目を覚ました。

 夜の静寂が家の中に籠っている。


 眠気に負けそうな体を起こし目を擦る。薄闇に目が慣れてきた頃に、シイの眠る部屋の障子を見た。暗闇に浮かび上がる障子紙の白が、聖域に入る者を拒む魔法の扉のようにそびえている。


 何も聞こえない。

 まるで意図されたような静けさを、侃爾は不審に感じた。

 音を立てないように立ち上がり、障子の前に立つ。その聖域を犯そうということに何故か躊躇いは無かった。

 重い音を立てて開いたその中を見れば、部屋の隅に敷かれた布団が饅頭のように丸く膨らんでいた。


 侃爾は何歩か踏み出して布団のわきに座り、気遣いながら彼女の名を呼んだ。まるで怯える猫に手を伸ばし、友好の意を示すような静かな声で。

 布団はビクリと跳ね、暫しの沈黙があった。

 やがてのろのろとカタツムリのように頭が出てきて、長い髪の毛先が布団の奥から覗き始める。

 面を上げたシイの顔は涙で濡れていた。


「悲しい、――のか」

 窓から零れる僅かな月光で作られた侃爾の影が、シイを黒い檻に閉じ込める。布団に擦った頬からは湿ったガーゼが剥がれ、治りかけの傷が露わになっていた。握った手は力を込め過ぎて白く震え、力を入れすぎて嚙み合わない歯はカチカチと音を立てている。

 侃爾は独り言に似た問い掛けを続ける。


「お前みたいな奴も、『悲しい』とか思うのか」

 シイからの返事は圧しつけたような呼吸音でしか返ってこない。

 どうしていいのか分からなかった。


 人並に女と付き合い、感情を共有し落ち込んでいるときは慰めもしたような気もする。相手を慕っていたから、無意識的に、当然のこととしてそんなことが出来た。しかしシイはどうだ。それとは真逆の感情――嫌悪をと敵意――を向けるべき彼女が大切なものを失った悲しみに暮れているのを前に、自分はどうしたらいい。指をさして笑えばいいのか。罵倒すればいいのか。ズタズタに裂けた胸の中に塩を塗りこむようなことが正解なのか。そうすることが復讐になるのか。否、惑乱する必要など無いはずだ。元よりそういうつもりでここにいるのだから。


 侃爾はすうと細く息を吸った。

『お前のせいで猫は死んだ』

『お前さえいなければ無事だったのに』

『お前が生きていること自体がそもそも罪なのだ』

 そう言うつもりで口を開いた。

 しかし、すぐに喉がつかえた。

 何かに首を締め上げられているような絞扼感があった。まるで誰かに発声を禁じられているような、そんな感覚だった。

 いつの間にか体も金縛りにあったように動かなくなっていた。

 侃爾はどうしていいのか分からなくなった。


 すると布団に包まったシイが、擦り切れそうな声で言った。


 ――――もう、いいです。


 俯いていて表情は見えないが、細い肩は孤独を纏い閑寂としていた。


 ――――もう、大丈夫です。


 覇気の無い声調で続ける。

 剥がれ落ちたガーゼの隙間から見える額の生っぽい傷が、濡れた赤珊瑚のように光っている。

 ふいにシイの右目が侃爾の方を向いた。見られている、と思ったが、その視力が欠けていると気付いたのもすぐだった。彼女が見ているのはもう一生光を感じない底なしの闇だ。

 シイの唇が動く。


 ――――今まで、ごめんなさい。


 と。

 これまでで一番流暢で、はっきりとした発音だった。

 その言葉を聞いたときに感じた体の奥底の痛みを、侃爾は何と表現すればいいのか分からない。電気に当たったようにどこもかしこも痛んだが、首の絞扼感からはいつの間にか解放されていた。


 目の前でシイを覆っていた影が濃くなる。柔らかな髪の感触が腕の中にあった。布団に包まるシイに覆い被さるようにして、侃爾は彼女の頭を抱いていた。

 シイが息を止めたのが分かった。


「あ、の……」

「『いい』って何だ」

 侃爾は腕に力を込めて、シイの顔を己の胸に押しつけた。

「え……と……」

「『大丈夫』って何だよ」

「あ、……か、侃爾さ――……」

「『ごめんなさい』だ? 俺に謝ってそれでお前は満足か? 後は首でも括って終いって言うのか?」


 首筋が濡れた感触がした。生暖かい粒がじんわりと皮膚に溶けていく。

 だって、と涙声でシイは反論した。


「つ、つら、くて。もう、どうしていいか……わか、分からない、から……もう…………」


 今まで弱音を吐いたことの無かったシイが切実に訴えた言葉には、正しく明るい未来を歩みたい、誰かに導いてほしい、などという前向きな含みは無かった。言葉の先には堕ちていく選択しかなく、彼女が猫の後を追いたいと願っていることは明白だった。


 侃爾は迷う。弟の仇を取るのに、こんなに適した機会など無い。

 シイ自身も償う――『死にたい』という希望は本意で、エゴ的ではあるのだろうが――ことを望んでいる。であれば……。


 侃爾は体を起こし、緩慢な動作でシイの腹の上に跨った。そのまま両手を、彼女の細い首に掛ける。大きな瞳が状況を理解する前にパチパチと瞬く。しかしすぐに侃爾の行動の意味を察し、その双眸は寂しそうにも嬉しそうにも見える形で細められた。



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