胸が握り潰されているように苦しい。
その苦痛に堪えられなかったのだと、侃爾は頭の片隅で言い訳をしながらシイの強く抱きしめた。湿った匂い。雨音が聞こえ始める。耳元でしゃくり上げる声が聞こえる。二人きりで、水底に沈んでいるような感覚がする。
細い肩が震えている。侃爾の胸に縋りつき、猫のように額を擦り寄せて泣いている。
どうしてそうしたのか分からない。
侃爾は彼女の骨の浮いた背をあやすように撫で、泣き声が収まるのを待った。仇に施しているとは到底思えないような、優しい手つきだった。
シイは時折後悔と謝罪を口にして、それが一層侃爾の心を痛ませた。
雲と雨粒に遮られた陽光は僅かしか届かず、室内の影を濃くした。
自分より随分低いシイの体温が服を超えて皮膚に浸透していく。触れたところが妙に馴染んで、引き剥す適時を失う。さりげなく抱き寄せると、次第にシイの体は溶けたように力を失っていった。
「落ち着いたか?」
侃爾がシイの体を自分に寄りかからせながら尋ねる。彼女は膝の上に乗せた猫の死体に視線を落として「……守れませんでした」とか細い声で呟いた。
「いつかこうなること、わか、分かっていた筈なのに……」
猫の腫れ上がった顔が侃爾を見ている。
三日月をひっくり返したような目が、何かを訴えたそうに見ている。
「わ、わ、私が、代わりに、こうなれば……よかった、のに……」
涙とともに零れる自責の言葉があまりに悲痛で、侃爾は思わず涙を掬うようにシイの濡れた頬を指で撫でた。様々な考えが廻ったが、どれも言葉にするのは躊躇われた。何を言っても適切でも正解でも無いようで、しかし何より自分の正義や信念が死んでいってしまう気配が恐ろしかった。
ただ、ここで何もしないと、自分が『人間』ではいられなくなると思った。
雨の檻に閉じ込められた閉塞感が、困惑する己の心を惑わせたのかもしれない。
「可哀想、――だな」
侃爾がシイを見ながら髪を撫でると、彼女は一拍の間を置き、涙の堪った瞳を瞬かせて頷いた。シイの手が猫の体を撫でる。
「……かわいそうです。……かわいそうです」
壊れたように繰り返す視線の先には猫が。侃爾の視線の先にはシイがいる。
猫が石のように硬くなるまでシイはそれを抱いていた。しかし諦めたようにそれを小さな行李の中に寝かせてやった。厚く敷いた手拭いの中で、猫は少しだけ表情を緩めたように見えた。
湿気に鉄さびに似た匂いが混ざっていた。それでもシイは行李に蓋を被せなかった。
暗い窓の外と、時折猫を見て、すんと鼻を鳴らした。
そしてはっとして、
「わ……す、すみません、が、学校に……あ、でもうちには傘が無くて……」
と叱られた子どものように慌てて肩を縮めた。
対して侃爾は落ち着いた様子で首を横に振る。
「いや、別にいい。雨宿りだけさせてさせてもらえれば」
ちゃぶ台を挟んで対角線に向かい合い、二人は押し黙ったまま雨が止むのを待っていた。食器棚の上の置時計は正午を指している。
手持ち無沙汰な侃爾はふと思い出して四畳間へ向かった。
無遠慮に押し入れを開けると、中には畳まれた布団や着物、小間物類がきちんと整頓されていて、この場所を整えた者の几帳面な性格が窺えた。
侃爾の目当てのものは、下の段に置かれた木箱の中に収まっていた。みっちりと、隙間が無いほど詰め込まれた無数の本だった。その中の一冊を手に取る。名の知らぬ作家の小説だった。皆どれもそうだ。物色し、興味を惹かれたものを抜き出すと、他の本たちがその穴を埋めようと寄り掛かり合う。
その寂しげなさまが、侃爾を深い寂寥の水面へ落とした。
本の持ち主の悲しさや悔いの念が気管と肺を満たしていく。
シイを思いながら死んだ者たちと、――愛情のゆくえ。
侃爾の心臓はせり上がってきそうなほど跳ねていた。雨音に荒い呼吸音が混じる。深呼吸を繰り返す自分がひどく滑稽に思えた。
これは自分の感情じゃない。
湿ったい草の匂い。
ほこりっぽい本の匂い。
ザアザアと雨音。
暗い、押し入れ。
溺れるような、
――――寂寞。
息が止まっていた。
侃爾は悪夢から覚めたような心地で強く目を擦った。ただでさえ日当たりの悪い室内は、悪天候のせいで人を攫いそうなほど闇を孕んでいる。冷や汗が首を伝った。
凍えた指先を揉んで、何事も無かったような顔でシイのいる部屋へ戻った。
彼女は同じ格好のまま俯いていた。
「これ、借りるぞ」
腰を下ろしながら本を持ち上げると、亡霊のように暗い顔をしたシイが静かに頷いた。
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次回投稿は3/10です。
よろしくお願いします。