シイは駆けた勢いのまま人間の輪を押し退け、その中に目をやった。
そこには、可愛がっていた猫が痛ましい姿で横たわっていた。
「あら、キチ〇イのオネエチャン」
「飼い主が来たぞ」
驚愕して動けないでいるシイに、人々は加虐的な笑みを深くした。
猫の顔は腫れて原型を留めず、脚はすべてあらぬ方向へ折れ曲がっていた。無数の傷からは血が流れ、三色の毛を赤黒く染めている。
頭の中は真っ白だった。
しかし、ここにいてはいけないと本能が警鐘を鳴らした。
ひったくるように猫を抱き上げ、輪になった人々の手の届かぬところへと走った。足を出した、つもりだった。
しかし後ろから腕を引っ張られ、砂利だらけの地面に引き倒された。
猫も腕の中から零れ落ちた。
仰向けになったシイの腹を恰幅のいい男が体重を乗せて踏みつける。シイは肺の中の空気をすべて吐き出して呻いた。
男が見下ろしながら言う。
「こんな汚ねえ猫の始末をしてやったんだ。礼は貰わねえとなあ」
「イヤだアンタ、このバイキン女ヤろうっての?」
「穴の中は皆変らねえだろうさ」
「ほら、子どもは帰んな」
腹に乗っていた男がわざと怖い顔をして、傍観していた子どもたちに手を払う仕草をする。そしてすぐに、待ち侘びたとばかりにシイの衿に手を掛け、前を開け広げた。白い乳房が露わになる。
抵抗しようとすると別の男が腕を拘束した。声も出なかった。着物の裾を掻き分け足の間に腰を入れられる。恐怖に体が石のようになり、涙だけがとめどなく流れた。
股の間に硬く屹立したものがあたる。
男たちが下卑た声で話している。
その後ろで、突然ギイギイと聞こえた。
顔を向けると、ボロボロの猫がひどく引き攣った声を上げていた。
潰れた目をシイたちに向け、突っ伏したまま四本の脚を痙攣させて。前に進もうとするように動かしている。
「おっ、まだ生きてる」
手持ち無沙汰だった男が嘲笑する。
――ギイッ。
――ギイッ。
近付いて行った男が、球蹴りをするように猫の腹を蹴った。
――――ンギィッ……。
遠くに転がった猫は今度こそ動かなくなった。
シイはそのさまを見て、真っ白だった頭に血が上ったのを感じた。
否、感じる暇も無かった。
気付いた時には自分を組敷いていた男の顔に爪を立てていた。男が女のような甲高い悲鳴を上げる。股間を蹴り上げて仰け反った男の下から抜け出すと、今度こそ猫を抱えて逃げた出した。
土手を駆け上がり、髪も着物を振り乱し、一心不乱に走った。涙が溢れる。
悲しみも恐怖も無かった。
ただ、――――悔しかった。
どこを走っているのかもわからない。走っていた勢いが殺がれたのは、突然硬い何かにぶつかったからだった。詰襟の逞しい胸が、筋肉で膨らんだ腕が、シイを抱きとめていた。
「お前、何故、ここに?」
侃爾だった。
彼は心底不思議そうに眉根を寄せた。そして、
「学校の敷地外ではあるが、こんなところに何の用があって……」
と尋ねようとしてシイの姿と腕の中の猫を交互に見て瞠目した。彼が息を詰めたのが分かった。
シイは侃爾に会えた安堵と、判然としてきた現状に肩を震わせ、張った糸が切れたように泣き崩れた。
猫がすでに息を引き取っていたのは分かっていた。
未だにぬくもりが残っているのがより悲しみを引き立たせた。
侃爾は羽織っていた外套をシイに被せて、掛ける言葉も無く佇んだ。旧制医学専門学校の敷地と外を隔てる塀のすぐ傍の枯れた木立と曇天がもの悲しげに二人を見下ろす。
暫くして侃爾が呻くように声を掛けた。
「帰るぞ」
覚束ない彼女に手を貸し、もう一方の腕で猫を抱え、侃爾は裏道を選んで歩いた。家に着いたシイは畳の上で項垂れ、侃爾から猫を受け取るとポロポロと涙を零した。
「わ、私の、せいで……私の、せいで……」
侃爾は静かに聞いていた。
しかしじっと彼女を見てから畳に膝を着くと、シイに手を伸ばしてその体を抱き寄せた。
「もう、何も言うな」