小間物屋の裏口から出て、シイは大きく息を吐いた。
陽も出ていない早朝。
一か月ぶりの納品日だった。店を切り盛りする老女――サトは険のある顔でシイの持ってきた櫛を査定し、品の価値に見合った金を彼女に渡した。そしてついでと言うように、立ち去ろうとするシイに抱えた両腕を満たすような量の干し柿を押しつける。
シイが慌てて遠慮すると、サトは年齢の刻まれた皺だらけの手でシイの両頬を摘まんだ。
「貰っときな」
ドスの利かせて言う。そのまま外に追い出され、シイは路頭に迷う子どもの気持ちで古い小間物屋の面立ちを振り返った。
螺鈿職人だった両親の代から取引のあるサトは寡黙だが、幼い頃から人慣れしないシイを虐げることはしなかった。目に見えて優しくは無かったが、見守るような眼差しには慈愛が満ちていた。シイは無意識にそれに気付いており、老女の傍にいても怯えることは無かった。ただまだ緊張はする。
次に会ったときには態度が変っているかもと思うと怖かった。シイはサトを好いていた。だから拒否される日が来ないよう、一挙手一投足には注意を払っていた。
サトがくれた干し柿は一人で食べきるには多過ぎる。こんなに貰ってしまって、気を遣わせてしまって、申し訳無い。手切れのつもりだったらどうしよう。シイは当惑しながら裏路地を歩く。
そのとき、ふと思い出したのは侃爾の姿だった。
彼なら一緒に食べてくれるかもしれない――。
大きな体に鋭い目つき。一見怖そうだが、そうで無いことをシイは知っている。
故郷にいた頃の彼は群れることを嫌い、よく一人で本を読んでいた。天気のいい日は校庭の隅に本を積んで座り込み、小鳥が鳴けばそれを眺めて目を細めていたのをシイは知っている。
シイは群れることができない子どもだった。他人と円滑に関わり合うことが難しかった。常におどおどと挙動不審で、緊張と不安ですぐに涙が溢れた。そんな変わり者を、皆は忌避した。初めは無視で済んでいたが、徐々に明確な虐めに変わった。近くにいると絡まれるので級友の傍にいることを避けるようになった。
すると自分と同じくいつも孤独でいる存在を見つけた。
藤村侃爾は、級友の藤村清那の二つ年上の兄だった。度々見掛けることはあったが、整った顔立ちが不機嫌そうにしているのを見ると、とても近付ける相手では無かった。
木立の下で頁を捲る繊細な手つき、長い睫毛の影、風に揺れる清潔な印象の短髪。
シイは三間(約5.5メートル)の距離を空けて、密かに心をときめかせていた。遠いところで見ていれば満足だったし、故郷を去るまでその距離が縮まることは決して無かった。
寧ろ、ある出来事を境にその間は断裂して、今ではもう元にも戻れない溝ができてしまった。
それはすべて自分のせい。
今面倒を見てもらってることは奇跡にほど近い。
シイは空全体を覆う重そうな雲を見上げる。
今日は来るだろうか。
期待と、いつか必ず来るであろう別離への不安と絶望が、胸の中で綯い交ぜになる。
人通りの少ない細道を帰ると、玄関扉が開いていて、家の中に猫の気配が無くなっていることに気付いた。貰った干し柿を放ってすべての部屋を開け、井戸端まで探したがいなかった。
下駄をガツガツと言わせながら表通りに駆け出す。擦れ違う人々が嫌悪の表情でシイを振り返った。
侃爾の通っている旧制専門学校にほど近い河原が騒がしかった。
耳をふさぎたくなるような口調、声質は、自分が平時、聞いているものをと全く同じだった。
――――厭だ。厭だ。厭だ。
シイは一瞬にして混乱状態に陥り、恐れも不安も怒りも負の感情の多くを巡らせながら下駄を脱ぎ捨て土手を駆け下りた。大人も子どもも織り交ぜた数名の男女が囲いを作って、その中を見下ろしていた。嘲笑とともに男の太い足が蹴りを入れれば、ギイとかガアとか喉が潰れたような声にもならないような声が聞こえた。