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第6話

 すると女が、涙に塗れた顔を上げて「では」と乞うような瞳を侃爾に向けた。


「では、ひ、人に見つからないところならば……ゆ、許されますか? わ、私、私は、どこへ行けばよいか……お、お、教えて、頂けませんか? ご、ご迷惑の掛からないように、命を絶ちたいのです……」


 女の言う『命を絶つ』が、侃爾の胸に重く圧し掛かる。原因の不明瞭な痛苦に胸を掻きむしりたくなった。

 仮にも医者を志し、死の淵に立つ患者に励ましの声を掛けてきた自分が、死に場所を乞われて何と答えればいいのか。下唇を噛み考える。

 弟の自由を奪った憎い人間を生かしておく必要などあるのか。



 別に、――――女が一人死ぬだけだ。



 こんな神経衰弱者に何の価値があるというのだ。

 頭の回路が焼き切れそうなほど考えて、侃爾はシイの潤んだ双眸と対峙した。


「いい死に場所を教えてやる。……が、ここからは遠く山深い場所だ。一カ月後、学校の試験が終わったら連れて行ってやる。そして――……」

 言ったのはただの思いつきだった。


「それまでの間、お前の傷の手当をさせろ」


 シイは目を丸くした。

 傷だらけの練習台を己の技術向上のために利用する。

 それだけの考えで侃爾は命じた。

 シイは挙動不審に辺りを見回す。肩を縮めて「ああ、うう……」と言葉にならない呻き声を上げる様子が如何にも精神の不安定を表しているようで、侃爾は焦れた。


「無理強いはしない。くたばって尚、世間様に迷惑を掛けたいならばそうすればいい。しかし何の取り柄も無いお前でも、俺に協力すれば間接的に人助けが出来るかもしれないぞ。俺は将来医者になるから、その練習台だ」

 偽りは一つも無い。

 己の矜持に関わるから『血が苦手』という情報は伏せたが。


 シイはおどおどとしていたが、やがて小さく頷いた。

「ぜ、ぜひ、れ、れ、練習台にして、下さい。こ、この体すべて、お好きに、し、して、してもらって……か、構いませんので」

 引き攣りながらも覚悟の決まった声だった。


 しかし他人が聞いたら誤解を生じ兼ねない言い方だ、と侃爾は先ほどのシイのように周囲の様子を視界の端から端まで窺う。

 苦い顔で頷き返した侃爾に、微かに安心したような表情を浮かべたシイは、よろよろと立ち上がり乱れた浴衣の裾を直して半月の映る川を振り返った。

 長い前髪が風にふわりと浮き上がり、少女の無垢さを残した端正な顔形が露わになる。

 そしてぶるりと身を震わせてから、「こんなモノは早く死ねばいいですよね」と悄然と呟いた。


 アーク灯さえ届かない暗闇の中でも、手当てのされていない傷は鮮烈な赤として浮かび上がり、目を瞑りたくなるほど痛々しい。

 侃爾がシイに家の場所を尋ねると、彼女は近所の裏長屋に一人で住んでいると答えた。暴力を振るい、妙な提案を持ち掛ける男に家を教えるなど不用心極まり無い。


「明後日、放課後に訪ねる」

 侃爾がそう言い切るとシイは、

「家に、い、いますので…………」

 と足元を見た。


 酔いはすでに醒めていた。

 約束を取りつけた侃爾は、早々にシイに背を向け、努めて歩調を一定にしながら寮に戻る歩を進めた。彼女の足音はいつまで経っても聞こえない。橋が見えなくなったところで振り向いてみたが、シイが帰路に就いたかどうかは判然としなかった。

 自室に帰っても、侃爾は寝付けずに朝を迎えた。


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