その晩、酒を持ち込んだ先輩に引きずり込まれ、寮の一室で飲み会が始まった。安酒をすすめられるまま飲み続けた透一は早々に脱落して部屋へ戻り、残った数人のうちの一人である侃爾はお開きになるまで付き合わされた。軽く片付けをして同室の透一の様子を窺い、静かになった廊下を通って玄関を出る。
外の空気は澄んでいた。
煙草の匂いもエタノールも匂わない、冬の清々しさを火照った肺と皮膚で感じる。
時刻は午前三時手前。
侃爾は生き物の気配が無い道を酔い冷ましのつもりで進んだ。風が無いお陰で気温は低いが震えるほどの寒さは感じない。一寸ほど積もった雪を下駄が踏むたび、ぎゅっぎゅと心地のよい音がする。
寮から歩き二本目の橋の手前で、侃爾は人影を見つけた。橋の中ごろに女が佇んでいる。波打つような長い髪を風に揺らす彼女は欄干に手を掛け、遠くの山を、そして時折橋の下に顔を向けていた。
侃爾は動けないでいた。
くすんだ白い浴衣を身に着けただけの女の姿があまりにも幽霊じみていて、まるで夢や幻を見ているような気がしたのだ。
彼女は侃爾に気付かない。
侃爾は無意識に呼吸を抑えた。
女は雪の積もった欄干を両の掌で擦る。そしておもむろに、川の底を覗き込むように身を乗り出した。始め、侃爾は魚でも探しているのかと思った。しかし華奢な体が吸い込まれるように欄干を乗り越え、地面から足が離れると、そうでは無いと気が付いた。もう体の半分が宙に浮いている。
侃爾は走った。ガツガツと下駄の歯が地を叩く。
ついに女の体が、ずる―――――と滑った。
「おいっ!!!」
侃爾は叫びながら、寸でのところで女の細い腰を抱き寄せた。
強い力で引っ張り上げ、仰向けに倒れ込んだ侃爾は、筋肉質な腕の中にいるシイを己の体の上からどかす。
雪の上で膝をついた彼女は打ちひしがれたように俯き、頭を抱えた。
「ど、どどどうして……ここに、いるんですか。何で、とめ、止め…………っ。目障りというのは……み、見るのが厭だと……いなくなってほしいと、と、いう、ことですよね? どうして、その、あの、まま……」
シイはくぐもった嗚咽を漏らした。
侃爾はどうしていいのか分からず、ただぼんやりと彼女の様子を見ていた。月明りの下でも分かる額の傷跡。ぱっくりと開いたままのそこは、今にも赤いものが溢れそうなほど深く抉れている。
悲しみに――否、絶望に、肩を震わせるシイの苦悩が冷たい空気を通して流れ込んできそうで、耐えるように皮膚に爪を立てて拳を握る。
この女に罰を与えたい。その願いは偽りではないはずなのに、今は目の前の女が飛び込まずに無事にでいることに安堵していた。己の矛盾に混乱する。つい、しどろもどろになって、
「こんなところで死んだら見つけた者が困るだろう。死体を片付ける者もだ。死ぬならもっと、人に迷惑の掛からないところで――……」
と咄嗟に思いついた言い訳を垂れ流していた。