時は大正。
旧制医学専門学校の校時を終えた侃爾は、夕餉の前の空腹を鎮める為に商店の立ち並ぶ通りを歩いていた。この中程にある肉屋では揚げたてのコロッケを売り出している。学校から橋を二本渡ったところにあり学生寮とも離れているが、挽いた牛肉がゴロゴロ入っているそれを侃爾は気に入っていた。
恰幅のいい男性店員に金を払い、行儀の悪さを承知しながら軒先で熱々のコロッケに噛り付く。甘みのある馬鈴薯のほくほくとした食感と、牛肉から溢れる濃厚な肉汁が美味い。すぐに食べ終わり唇についた油を舐め取ると、侃爾は寮に戻るためにをゆっくりと歩を進めた。
ハイカラなカフェーのある通りとは異なり、瓦屋根から暖簾を垂らした連なりにはどこか懐かしさがある。安価なそばやコロッケを求める以外に訪れることは無いが、地味な中にも活気と人情のあるこの場所の雰囲気には好感が持てた。
前方の騒がしさに気付くまでに、大して時間は要さなかった。
呼び込みのものと思った張りのある声には、激しい憤怒の色が感じられる。視線を向けると、声の出所には人だかりが出来ていた。男の声が暗い夕焼け空に響く。侃爾は野次馬の群れに近付き、騒ぎの中心を見た。
八百屋の前掛けをした若い男が足を踏み鳴らしている。その先には女が倒れていた。円になって目尻を釣り上げる人々の壁からはどこからともなく石が投げ込まれている。大小のそれが、的となっている彼女の体を傷つける。癖のある長い前髪に隠れた頬が、滲んだ血液で赤く染まっていた。
――――何匹ものミミズに似た古い傷痕が走る顔。
――――侃爾は瞠目した。
見間違うことはない。
あれはシイだ。
彼女はは抵抗せずされるがままに傷つけられていた。子どもの頭ほどの大きさの石を肩にぶつけられても、小さく呻くだけでどこか諦めたように俯いていた。
暫く侃爾はその姿を見ていた。いい様だと、思ったのだ。
大事な弟に大怪我をさせた憎い相手が虐げられている。
八百屋の男はシイをなじり罵倒し続けていた。曝け出されたあちこちが赤く腫れ上がり、切り傷からは血が流れている。
濃紺の着物にどす黒い染みが増えていくさまが、悪夢のような現実を際立たせているように思えた。侃爾は思わず奥歯を噛み目を背けた。薄い皮膚が破れ流れ出る女の血を見ているとひどい吐き気を催した。
怒鳴る男は、店に並べていた品物にシイが触れたことを怒っているようだった。「バイキンが移る」「穢れる」と責める。侃爾は男の言葉がよく理解できた。知恵遅れで神経衰弱、まともに人と話せず、世間の常識を持ち得ない存在は忌避されて然るべき。
女は当然の仕打ちを受けているだけだ。
人に害をなす存在なのだから。
暴力の音が、群衆の罵声が、侃爾の感情を沸々とを昂らせる。
気付いたときにはその輪の中に入っていた。
男は侃爾の登場にニヤけた表情を浮かべ、シイは一瞬だけ驚いたように彼を見上げた。
侃爾がシイへ近付いて行く。ぴたと投石の雨が止む。
彼が静かに腕を伸ばすと、シイは何をされるか理解しているようにきつく目を瞑った。