襖の向こうから女の悲鳴が響いた。
大きな音を立てて開いたそこから飛び出して来た女の顔は恐怖と絶望に歪んでいた。
声を掛ける間も無く階段を駆け下り逃げて行く菫色の着物を、
しかし女は五歩程進んだところで、背後から伸びてきた学生服の腕に捕らえられた。
侃爾が細い腕を掴むと、弾かれたように振り返った女は白く残る息を吐きながら涙を流していた。
「どうしてお前が泣く? 泣きたいのは俺の弟だろう」
侃爾がいたぶるように手に力を込めると、女は大きな瞳から止めどなく雫を落とし、嫌々する子どものように激しく頭を振り乱した。十代後半の女がするには年齢不相応で、侃爾はその幼稚さに眉を顰める。
女は感情を露わにするものの、言葉は一つも発しない。
ミミズのように膨らんだ傷痕だらけの顔を伏せて肩を震わせる。
その態度に侃爾は苛立ち、しかし同時に哀れみを感じた。あまりに弱者のそれだった。昨今では揃いのセーラー服を着た女学生たちが洒落た青春に花を咲かせているというのに、この女はそういった雰囲気とは掛け離れ過ぎていた。
まるで肉食動物を前にした小動物のように彼女は怯えている。
神経衰弱の人間に激しい嫌悪を抱く侃爾が見ても、今の女には少しだけ同情する。
「ご……ご……」
彼女の色の無い唇が僅かに動くと、寒さのせいか恐怖のせいか奥歯がガタガタと鳴る。しんと静かな薄暗い雪の午後に、か細い声はぽつぽつと積もっていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……わ、わ、私が、全て悪いことは分かっています……何と、お詫びしたらいいのか……ど、ど、どうしたら…………、あの……でも……その……」
何を言っているんだこの女は。
女の揺れる声が、侃爾をますます不快にさせた。
人間として不出来だ。失格だ。
雪のように白い顔に、真新しい傷がいくつも引かれているのも厭だ。怯えた表情、態度と、その今にも血が溢れてきそうな傷は見るに堪えず、侃爾は思わず女の腕を解放した。見開かれた女の目から水晶のような涙がポロリと落ちるさまが、侃爾の目にはひどく緩慢に映った。
彼は険のある眼で女を見据える。
「二度と俺の前に現れるな。次会った時はこれじゃあ済まないぞ」
侃爾が意味深に拳を握ると、女は体を縮込めて「はい、はい……」と何度も頷いた。
「行け。お前の顔など二度と見たくない」
しっと手を払う。
女は後退りしながら侃爾から離れて、一度も振り返らずに逃げて行った。
白い溜息を吐く。
女の顔に何本も走る瑞々しい赤い切り口と、涙に浸った真っ黒い瞳が記憶にこびりつき、頭を振ってみても消えない。
家に戻ると、履き潰された女ものの草履が三和土の隅に揃えられたままだった。
そのまま置いておくのも気持ちが悪く、女中のルカに燃やすように言いつけた。
これであの神経衰弱の女――シイとの接点も無くなった。
……――――筈だった。