運転席に座るエルの左肩は、じっとりとした血に濡れていた。さっき窓から飛び降りたことも含め、どうして彼女はそんなに平然としていられるんだ?
エルが素足でアクセルを踏む。危うくスーツの男性を轢きそうになるのに、彼女はまったく気に留めていない様子だった。
「……化け物」
思わず、唇の隙間から思考が零れる。だって彼女を形容する言葉を他に思いつかない。だんだん車は加速する。スピードメーターが右方向に振り切れていく。怖い。怖い。怖い。体の内側から込みあげる、途方もない恐怖心に頭を支配される。
死にたくねえ、とあたしは思う。その感情は、コンステレーションに感染して隔離施設に放り込まれたあの日から、ずっと胸中を占めてきたものだ。喉もとが熱くなって、次第にそれは目頭に伝播して、温い雫が頬を伝う。エルの暴走は止まらない。だったらあたしが抑止力にならなきゃいけない。気がついた時、あたしは横からハンドルに手を伸ばしていた。
耳を塞ぎたくなる衝撃音がした。ダッシュボードからエアバッグが飛び出して、顔からのめり込む。どうやらガードレールに衝突したらしい。今も心臓がドクドクと脈打っている。助かった……のか? おそるおそる隣に視線をやると、エルはエアバッグに顔を埋めた姿勢のまま動かない。
「おい……エル!」
嫌な予感が脳裏を蝕んで、あたしは咄嗟に彼女の肩を揺すった。そうしてふと、ナイフで抉られた傷口に触れていることに気づいて、手を引っ込める。
エルが怠そうに顔をあげた。こんな状況にもかかわらず、「逃げなきゃ……」とうわ言のように繰り返している。
「なに言ってんだ、命の方がずっと大事だろ! 一体エルがなにから逃げる必要があるってんだよ!」
あたしはいよいよ、彼女に付いてきてしまったことを本気で後悔し始めていた。もう何もかもがめちゃくちゃだし、死にたくないし、死にたくない。とにかく死にたくねえ。あたしは本当に死にたくないんだ。一秒でもいいから長く生きていたいんだ。だから、これ以上彼女の我儘には付き合ってられねえ。
「あの男の人はなんなんだよ? エルさ、なんかやばいことに関わってたりすんの? こんな酷い目にあってさ、あたしもう散々だよ……」
強い覚悟のもとに発した言葉だったのに、彼女はそっか、とだけ言った。その口もとは僅かに上がっていて、呆れ笑いみたいにも見えた。
「君もそうやって私を一人にするんだね。それならいいよ、別に。今まで辛いことに付き合わせてごめん。私みたいなのと一緒にいて最低だったよね。ごめんね」
エルが早口に捲し立てる。その潔癖な瞳にあたしは映らない。彼女は壊れた機械人形みたいに、じっと虚空を見据えていた。
それからほんの数秒後。エルが腰をあげて、運転席と助手席の間に置かれたケースに手を伸ばす。中には小さながま口のポーチが入っていた。車の持ち主が緊急用に忍ばせていたお金なのだろう。彼女はそれを無造作にジーンズのポケットの中に突っ込んだ。
「さっきのどさくさで、持ってきた鞄手放しちゃったみたい。ワクワクしながら荷造り頑張ったんだけどなあ……」
エルはやっぱりこちらを見ないまま、ぶつぶつと独り言を零した。そうしてもう用は済んだのだとばかりに扉を開け放ち、外に出ていってしまう。
「待ってよ」
何かが心中を抉っていた。それの正体は分からないけど、でも、彼女を引き止めなくちゃいけないと思った。そうじゃなきゃ、ひどく後悔する気がした。
「なあ、待てって言ってんだけど」
ずんずんと一人で先の道を進んでいく彼女の腕を掴む。けれど、強引に解かれた。信じられないくらい強い力だった。違うか。あたしの力が弱すぎるだけかな。
「せめてさ、靴だけでも返させてよ」
何を言えばこっちを向いてくれる? そうやって必死に考えついた切り札がこれだった。
あたしは路上で、彼女に借りたスニーカーを脱ぐ。街灯に素足が晒された。無数に浮かぶ青黒い斑紋は夜空を彩る星々みたいで、その美しさがひどく忌々しい。
あたしの症状は爪先から始まった。初めてこれをエルに見せた時、あんたは言ったね。「醜いね」って。傷ついた顔をしてくれたね。それがあたしにとってどれだけ嬉しいことだったか、エルはちゃんと分かってる? 気休めみたいな言葉ばっか吐き捨てられる日常で、あんただけが本物だった。エルだけがあたしの救いだった。
「いらない、あげるよ」
エルがゆっくりとこっちを振り返る。拍子にボブカットの髪が風に靡いて、憂いを帯びた表情が魅惑的に映る。
振り向いてくれた。あたしを見てくれた。この瞬間を、あたしは絶対に見逃さない。走り寄って、彼女に抱きつく。傷ごと全部抱きしめる。
「お願い。くだらない世界から、あたしを攫って」