目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話 痛みを知らない

 頭上から凩美命が降ってくる。私は彼女が落ちる軌道を正確に捉え、上手い具合に毛布を広げる。大丈夫、やれる。最初のタイミングすら見誤わなければ勝てる。


 受け止めた。けれど、彼女の重さに体がもっていかれる。私はどうにでもなるんだから、美命だけは救わなくちゃいけない。その一心で、彼女の下に潜る。下敷きになるかたちだった。頭を硬い地面に打ちつける。彼女の体重に抑えつけられ、肺が圧迫する。


「あたし、生きてる……」


 美命の声が聞こえる。良かった、上手くいったみたいだ。


「う……ねえ……ちょっと」


 私が息切れ切れに呻き声を漏らすと、彼女はようやく私のことを思い出したみたいに立ちあがった。


「悪いなエル、大丈夫か?」

「うん、余裕」


 美命の手を借りて、私も立ちあがる。さっき窓辺にライトの光を見た。いつまでもこうしてはいられない。早く遠くに逃げなければ。私は必死の思いで彼女の手を掴む。


 走り出そうとしたその時、遠目に人工の赤い光を見た。辺りにけたたましいサイレンの音が響いている。敷地の出口から伸びる一本道の道路の先に、パトカーの群れが見えた。感染者の逃走というのは、よほど重大な悪事らしい。


「エル。どうすんの……」

「大丈夫だよ。私に任せてくれたらいいから」


 冷静にそう言ってみるものの、実際ここまでの想定はしていなかった。これからどうしようか。私は美命と自由を掴みたい。エゴでも何でもいいから、彼女と幸せになりたい。本当に、ただそれだけなのに……。


 どうして大人たちはいつもいつも邪魔してくるんだろう? 不意に、可哀想な母と最低な父のことを思う。たちまち悔しさで目元が熱くなる。けれど、やっぱり私はそれを理性で押さえつけるのだ。いつだって。


「……エル?」


 途端に黙り込む私の顔を、最愛の友人が覗き込んでくる。荒れた肌とカサついた唇、抜け落ちた髪を隠すためのビーニー。悲しいくらいに醜くなっていく彼女は、それでいてあまりに愛しいから嫌になるよな、と思う。


「ううん、なんでもない」


 とにかく人目につかないところに移動するため、私は美命の手を強引に引きながら、施設の裏手へ回った。途中、彼女が素足のままであることに気がついて、私のスニーカーを履かせてあげた。


 駐車場に貼り巡らされたフェンスをよじ登って突破し、そのまま林の中に入る。木々に紛れれば見つかりにくいだろうという、古典的な思いつきだった。


 昨夜雨が降っていたせいだろう。ぬかるんだ土に足を取られながら、私たちは駆けていく。遠くに、遠くに。途中、まとわりつく泥の感触が気持ち悪くて、わたしは靴下を脱ぎ捨てる。焦燥感を抱いて、ひたすらに先へ急ぐ。それなのに。


「なあ、痛いって」


 突如、美命が苦しそうに息を吐きながら、私の手を振り払った。


「あー、うん。ごめん。でも急がなきゃ」


 私は突然のことに動揺し、彼女が気でも迷ったのかと思って、急かすように言葉を吐く。


「あたしさ、エルが分かんねえよ」


 続く美命の台詞に、私は耳を疑う。未だサイレンの音が聞こえていた。こんなところで立ち話をしている時間はない。多少無理をしてでも、今は先を急ぐべきなのだ。私は苛立って、彼女を睨みつける。


「じゃあなに? ここまで来て引き返すの? 私、馬鹿みたいじゃん。美命は私が捕まってもいいの?」


 責め立てるような口調に、美命が怖気づくのが分かった。効いている。私はさらに畳みかけるように、彼女の核心をつく。


「君は自分の意志であそこから飛び降りたじゃん。違う?」

「違わないけど……」

「じゃあそれが答えでしょ。そもそも、一緒に死ねって言ったの誰だよ。君が抱えてる苦しさってこの程度で諦められるものだったの?」


 美命が黙り込む。それで私は安心して、また歩きだす。ちゃんと彼女は後ろをついてきた。とりあえず向こう側に抜けて、最寄りの駅を目指そう。

 やがてサイレンの音が遠のく。耳に触れるのは、パキ、という小枝を踏む音。不吉なカラスの鳴き声。木々の隙間を縫う、寂しい風の音。


 どれくらい時間が経っただろう。ずっと真っ直ぐに歩き続けた甲斐あって、ようやく前方に明かりが見えてきた。


「美命、もう少しだよ。もう少しでまともな道に出るからね」


 自然と私たちの足は早まる。無理もない。ずっと不気味な林中を歩いてきたものだから、些細な明かりだって恋しいのだ。けれど、そんな気の緩みが良くなかったのかもしれない。誰かに腕を掴まれた。完全に注意を怠っていた。目の前の路上に見慣れた乗用車が停車している。


「永流、こんなところでなにしてるんだ! 馬鹿な真似はよしなさい」


 黒いスーツに身を包んだ男性――父だった。大嫌いな顔が眼前に迫って、吐き気がした。どうしてここが分かったんだろう?


「離せよ! 汚い手で私に触るな!」


 こんなところで終わりたくない。私は、私は――。


「エル、この人……さっき病室に来てた……」


 美命の呟きに、私は腑に落ちる。そこまで把握されていたのか。恐らく私たちが林中を進むのを見越して、先回りされていたのだろう。

 父の背後には、彼が取り仕切っている裏組織の連中が二人いた。彼らとは幼い頃一度だけ会ったことがある。あいつらは私の母を連れ去った。抵抗する母を、父はただただ見ているだけだった。


「私はお前を生涯許さない! お前が……お前がお母さんを殺したんだ!」


 ほんの僅かに、父が動揺を見せたような気がした。けれど次の瞬間、彼の背後に構えていた組織の一員が迫ってきて、私の左肩に鋭利なナイフを突き立てた。

 血がドバドバと溢れだし、アスファルトにぼたぼたと赤黒い点々を描く。でも私にとってそれは致命傷どころか、かすり傷にだってなり得ない。私を襲った強烈な痛みは、まるで幻影だったみたいに不確かになる。


 容赦のない攻撃だった。目の前の父は少しも動揺している素振りを見せない。分かっているからだ。娘の人間離れした悪魔的な体質を、嫌というくらい分かっているからだ。

 美命の泣き叫ぶ声がする。ほとんど絶叫に近いそれに、私は思わず苦笑する。ねえ、大丈夫だよ、本当に。私、人間じゃないもん。


「さあ、もう気が済んだろう。永流、私たちと一緒に帰ろう」


 父が諭すように言う。無理に抑圧したような気味の悪い声音。抵抗すれば、向こうも強硬手段でくるはずだ。考えろ。何か策はないだろうか。成人男性複数人を相手に、まともに戦っても勝ち目はない。


 思考する。視界の端で、ガクガクと震えている美命を認知した時、私は咄嗟に現状を打開する方法を閃く。それは、彼女の体を引き寄せて盾にするというシンプルなものだった。無慈悲なこいつらだって、流石に一般人を刺せるわけがないのだ。


 思った通り、私が美命を人質にすると彼らは明らかに動揺を見せ始めた。私は、その僅かな隙を見逃さない。

 狙いは彼らの車だった。私を見つけて焦っていたのか、扉は開きっぱなしで容易に乗り込むことができた。運転席に乗り込むや否や、ダッシュボードに設置された収納ボックスからスペアキーを取り出す。そうして美命が助手席に乗り込むのを確認してから、私はアクセルを踏んだ。


「……運転、したこと、あんの?」

「あるわけないじゃん。でもまあ、親の運転見たことあるから」


 今更しょうもないことを尋ねてくる美命に呆れつつ、私は言葉を返した。

 発進直後、車窓に誰かの拳が叩きつけられたけれど、無理に振り切る。


「……化け物」


 助手席で、美命がそう呟くのが聞こえた。刹那、幼い頃の嫌な記憶が脳裏に過ぎって、私の胸は僅かに痛む。ううん、違うか。これは痛みじゃない。所詮私は、本当の痛みを知らないんだから。


 ――痛みを知っている人間は、他人に優しくなれるのよ。


 不意に、いつの日かの母の声がした。うるさいな。そんなわけないだろ。泥だらけの素足で強くアクセルを踏む。どんどんスピードが加速する。絶対、そんなわけないんだよ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?