突然夜中に病室の窓が叩き割られ、そのおぞましい音に目が覚めた。まず真っ先に思ったのは、誰かがあたしを殺しにきたんじゃないかってこと。あたし、ニュースとかあんま見ないけどさ、感染者が疎まれているのは何となく分かってたから。
でも、そんなふうに死を覚悟したあたしの前に現れたのは、あたしの唯一の友人――
「美命、安心して! 私、永流だよ。迎えにきたの!」
「……は、意味、分かんねえんだけど。お前、頭おかしいんじゃねえの?」
馬鹿だ。本物の馬鹿がここにいる。思えば彼女は昔から妙に行動的なところがあった。いつも冷静に見えるのに、時折タガが外れたみたいに理解不能な言動をすることがあるのだ。正直に言うと、その不安定さがちょっと怖くもある。
その時、遠方からバタバタと足音が聞こえた。そりゃあこんだけ大騒ぎしたらバレるよな。不法侵入に器物破損……。こんなめちゃくちゃにして、どれだけ怒られることか。結局エルの目的が何だったのか分からないけど、流石の彼女も観念するだろう、なんていうあたしの思考は甘かった。
何やら考え込んでいる様子の彼女は、途端に月を見あげ、外に続く窓を開け始める。もちろんそれは、換気のために少ししか開かない仕様になっている。
「美命、お願い。ちょっと下がってて」
嫌な予感がしていた。けど彼女を止められるだけの言葉も思いつかなくて、あたしは言われるままに後ずさりする。
予感は的中した。エルはまたしても、強引にガラスを叩き割った。何度も何度も握りしめたハンマーを振り下ろす。本当に今、目の前にいる彼女は春風永流なんだろうか。怖い。本能的にそう思う。
「おい、エル。なにしてんだよ!」
あたしは怒鳴った。エルが何に対して必死になっているのか、あたしにはまるで分からなかったからだ。声を張ると、空咳が出た。喉が痛い。息苦しい。あたしの体は悔しいくらいにどんどん弱ってく。
途端、エルを殺したくなった。だって、あたしだけ死ぬなんて間違ってる。道連れにしてやりたくなった。エルもあたしと一緒に死ねばいいんだって、そう思った。たちまち胸中で膨れあがる感情に従って、あたしはエルの近くまで歩んでいく。そうして彼女の白い首に両の手を伸ばす。
「もう取り返しつかねえぞ……」
それは、エルにというよりは、あたし自身に向けて放った言葉だった。
「いいでしょ、どうせ死ぬんだから」
次に彼女が口にした台詞に、心臓が跳ねた。
「は?」
「美命、もうすぐ死ぬんでしょ」
一瞬、思考が停止する。手から力が抜けて、あたしは項垂れた。どうしてエルがそれを知ってるんだ? 確かに昨日、あたしは余命宣告を受けた。病気の進行が思ったより早いみたいで、あと一ヶ月も生きられないらしい。ほんと笑えるよな。エルに再度その事実を突きつけられたことで、死への恐怖があたしを襲った。目頭が熱くなって、視界が歪む。確実にそれは迫り来るのだ。逃れようもなく。
「逃げよう、私と」
突如、エルがそう言った。芯の強さを窺える、いやにはっきりとした声音だった。月の光を取り込んだその瞳はあまりに真っ直ぐで、きっと穢れを知らなくて、直視できない。
「どうせ死ぬなら、最後くらい青春しよう。普通の高校生の女の子がするみたいなこと、私としよう」
魅惑的な言葉に呑まれそうになるけど、あたしは瞬時に冷静さを取り戻した。次に込みあげてきたのは途方もない苛立ちだ。そんな簡単に言ってんじゃねえよ、と思う。エルだって分かってるはずなのに。
数年前から、人々はコンステレーションウイルスによる不安と恐怖に苛まれ続けている。未だワクチンは開発途中だと聞くし、罹患者の治療法も確立されていない。万が一にでも誰かに感染させる可能性があり、尚かつそこに生死が絡む以上、あたしは身勝手にここから抜け出すわけにはいかない。当たり前の話だ。子どもの我儘が通じる問題じゃないんだ。それなのに、あたしは何も言えずにいる。いくつも脳裏に過ぎる正論が、なぜだか喉もとで消滅していく。
病室に近づいてくる足音が、さっきよりもずっと大きくなっている。ほら、もう駄目だよ。大人しくさ、謝ろう。今なら間に合うよ。あたしがエルにそんな言葉をかけようとした時、彼女は窓枠に足をかけていた。止める間もなく、彼女が空を跳ぶ。胸の辺りがひやりとして、きりきりと捻れた。
目の前で人が死んだ。三年間見舞いに来てくれた、唯一あたしを気にかけてくれていた友人が死んだ。回らない頭で、ほとんど祈るみたいな気持ちで、あたしはおそるおそる窓から顔を出す。そして息を呑んだ。…………なんで。
「私、健康だから!」
遥か下方で、エルがピースサインを掲げていた。見たところ外傷は見受けられない。遠目で見る分には本当に元気そうに見える。なんなんだよ、ほんと。健康とか、そういう問題じゃねえじゃん。なんでそんなに平然としてられるんだよ。
エルは次に、一緒に落ちたボストンバッグの中を探り始め、分厚そうな毛布を取り出した。それを両手で目一杯広げたかと思えば、「おいで!」と叫ぶ。
ちょうどその時、誰かがあたしのいる病室に足を踏み入れてくるのが分かった。ライトで体を照らされる。眩しい。ちらりと後ろを振り返ると、夜勤の看護師とスーツを着込んだ知らない男の姿が映った。変わらず外からはエルの大声が聞こえてくる。
「はやく! 捕まっちゃうから!」
いやいや。そんな頼りない毛布一枚を当てにして、こんな高い場所から飛び降りられるわけない。最悪二人して死ぬ。絶対無事じゃ済まない。別にあたしがここから抜け出す理由もないし、どうせもうすぐ尽きる命だし。おまけに怖くてたまらねえし、今だって足が震えてるし。けど。でもさ。
「美命! 私だけを見て、真っ直ぐに落ちてきて!」
エルがあたしを呼ぶから。この場から飛び降りる理由なんて、それだけで十分じゃねえかって思っちゃったんだよな。