確か、クローゼットの奥に幼い頃使っていたリュックサックが眠っていたはず。あらゆる衣服や小物を投げ飛ばし、私はようやく目当てのそれを手に取った。うん、やっぱりこれくらいのサイズ感が好ましい。彼女の荷物はここに詰めてあげよう。
私は現在、自宅で美命を迎えに行くための準備をしているところだ。しばらくはこっちに帰ってこれないだろうから、それ相応の持ち物を揃えたいと思いつつ、あまり重荷すぎても不便だろうか、と頭を悩ませる。
着替えに食料、水、財布、寝袋、ライター、懐中電灯、折り畳みナイフ……。あとは何が必要だろう? 出動は今夜だ。今夜しかない。急がなくては。闇夜に颯爽と現れる私を見て、君はどんな顔をしてくれるだろう? それを想像するだけで、私の胸はこれ以上ないくらいに高鳴るのだ。
今夜父が帰ってこないのは知っていた。だから私は、誰もいない静まり返った自宅から、易々と逃げだすことができた。何の面白味もスリルもないけれど、追っ手から逃れるために用心しなくてはいけないことは多い。
例えば、家から抜けだす前に、風呂桶に水を貯めてスマホを水没させた。埋め込まれたGPSを殺して居場所を不明にするのが目的だった。それから、玄関ドアはきちんと鍵を閉めたあと、その鍵は側溝の隙間に落とした。さらには防犯カメラ対策で、フードを目深に被った状態で夜道を歩く。今から迎えに行くからね、美命。
*
そうして私はまた、あの孤城に辿り着く。三年間通い詰めた、人里離れた病棟に。暗闇にそびえ立つ、優しさの欠片も感じられない建造物を見あげて、やはりこんな場所に彼女が閉じ込められていていい訳がないのだ、と私は確信を新たにする。逃がしてあげたい。たとえその結果が、世に混乱を招くとしても。
施設の裏手に回り、職員用の入口を探す。木々で遮られた分かりにくい場所にそれはあった。脇に取り付けられた機械に、盗んだカードキーをかざす。カチャ、という特有の音が鳴って、試しに扉を押してみるとすんなり開いてしまった。あっという間に侵入に成功し、階段をつかって彼女がいるフロアに向かう。
さて、このまま同じカードキーで病室にも侵入しようと思ったら、どうやらこっちはまた違う鍵が必要らしい。試しにカーテンが閉め切られた窓ガラスをコンコン、と小突いてみる。反応はない。何度か試してみたけれど駄目だったので、たぶん美命は深い眠りに就いているのだろう。
次第に苛ついてきた私は、肩に下げるボストンバッグから工具用のハンマーを取りだして、分厚いガラスを気合いで叩き割った。飛び散ったガラスの破片が目に刺さってとんでもなく痛かったけれど、所詮は一瞬の痛みに過ぎない。左の眼球に刺さったそれを、片手で乱暴に引き抜く。血が噴きだす。ぐちゅ、という気味の悪い音が鳴って、私の左目はすぐに通常の状態に戻った。
そんなこんなで、私は窓枠に足をかけてよじ登り、病室の侵入に成功したのだった。華麗な侵入、とはいかなかったね。残念。
窓辺から青白い月明かりが差し込む室内。窓際に置かれたベッドの上で、美命が体育座りの格好で自身の体を抱きしめている。一体何を怖がっているんだろう? ああ、そうか。危ない奴が侵入してきたと思ったのかな。
「美命、安心して! 私、
私は自分の存在を示すように、大きな身振りをしながら彼女に近寄る。それなのに、美命は未だ不安そうに身を寄せていた。
「……は、意味、分かんねえんだけど。お前、頭おかしいんじゃねえの?」
拒絶されるのは想定内だった。私は可哀想な彼女を見下ろして、ため息を吐く。
その時遠くの方からバタバタという足音が聞こえた。一人のものじゃない。複数人がこちらに向かって駆けてきているようだ。騒ぎすぎたか。時間がない。正規ルートでの脱出は不可能、ということは……。
私は冷静に頭を働かせる。そして私たち二人を淡く照らす月に視線をやる。こっちの窓から飛び降りるしかない。試しに窓を開けてみようとするも、数センチしか開かない仕組みになっていた。飛び降り防止のためだろう。
「美命、お願い。ちょっと下がってて」
私は訝しがる彼女をどうにか部屋の隅に追いやりながら、またもハンマーで窓ガラスを叩き割った。本日二度目。ガシャガシャン、と激しい音が鳴り響き、外への通路が空けた。冷たい夜風が肌を撫でる。床に散らばった破片が月の光に反射して、幻想的な光景を生んでいる。
「おい、エル。なにしてんだよ!」
真っ青な顔になった美命が、私を怒鳴りつけた。そうやってまたゴホゴホと咳き込む。ふらふらと頼りない足取りで私に近寄ってきたかと思えば、私の首に両手をかけた。その手があまりに弱くて、脆くて、私は泣きたくなる。
「もう取り返しつかねえぞ……」
「いいでしょ、どうせ死ぬんだから」
「は?」
「美命、もうすぐ死ぬんでしょ?」
私がそう言うと、彼女は私の首にかけていた手を力なく離した。その瞳が涙に濡れるのが分かって、私は何とも言えない気持ちになった。
「逃げよう、私と」
私は彼女から目を離さないまま、はっきりとそう告げた。
「どうせ死ぬなら、最後くらい青春しよう。普通の高校生の女の子がするみたいなこと、私としよう」
美命は何も答えない。それで十分だ。否定されないだけで十分だった。
さっきより足音が近くなってきている。私は割れかけのガラスが不格好に生えた窓枠に片足をかけた。ここは五階だ。具体的な数字は分からないが、かなりの高さがある。けれど恐怖はない。本当に。美命がこのままこの病室に閉じ込められ、孤独に一生を終えることの方がずっと怖い。右足を踏み締めて、飛んだ。直前、はっと彼女の息を呑む音がした。
両足で着地、とはいかなくて、普通に体全体を殴打する。脳がぐわんと揺れて、背中に激痛が走る。骨が折れた、絶対。でも大丈夫。急速に体が癒えていくのが分かる。ほら、もう痛くない。
私は倒れた体を起こし、自身が飛び降りた窓を見あげる。美命が顔を突き出して、こちらを心配するように見ていた。遠目からでも、その不安げな顔が手に取るように分かって面白い。
「私、健康だから!」
本気で焦った様子の友人が愛しくて、私はおちょくるようにピースサインを掲げた。