目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

夜を守る剣

夜。

月の光が、静まり返った街をやさしく包んでいた。

建物の影は深く伸び、灯りの消えた路地には、ほとんど人の気配もない。


私はそっと目を閉じ、呼びかける。


(エレン……いつも通り、お願い)


(ああ――任せてくれ)


ふわりと意識が沈み、身体の感覚が内側に遠のいていく。

その代わりに――静かで、凛とした気配が満ちていくのを感じた。


私の髪は、月光に照らされるように色を変えていく。

白銀に揺れる長い髪。

そして瞳には、淡く滲む深紅の光。


ひとつ、深呼吸する。

もう、この身体は彼のもの。



視点:エレン



風が静まり返る。

空気が切り替わる。

そんな感覚とともに、私は目を開けた。


銀髪を束ね、フードを深く被る。

腰の剣に一度だけ触れ、柄の感触を確かめる。


「……捜索を開始する」


呟いた声は夜気に吸い込まれ、誰にも届かない。


まずは騎士団の巡回を避け、人通りのない道を選ぶ。

足音は石畳にほとんど響かず、影の中に静かに紛れていく。


(……やはり、下水道か)


(うん。騎士団も、表通りばっかりだし……)


(私の言った通り、泥と臭気を避けたがるな)


私はそのまま、何の迷いもなく地下へと足を向けた。



水の滴る音が、石壁に鈍く反響する。

腐臭。鉄と泥が混ざり合った、重たい空気。


下水道は、いつだって人の感覚を鈍らせる。

だが私にとっては、もう慣れた場所だ。


(臭い、大丈夫……?)


(……問題ない。)


言葉を交わしながらも、私は一歩ずつ奥へと進んでいく。


その時――


ぬめった水を引きずるような音が、前方から聞こえた。

ただの水音ではない。

肉と皮が擦れる、いやな音。


(……何かいる)


気配の“重さ”が違う。

ただの獣とは、明らかに異なる。


私はすぐに跳躍し、音の方角へ踏み込んだ――


が、その瞬間。


「きゃあああっ!!」


――少女の叫び。


即座に気配を読み取り、迷わず跳び込む。


闇に濡れた空間。

そこにいたのは、膝をついて震える少女と、唸り声を上げるグール。


腫れた皮膚、白濁した目。腐敗の進んだ腕を、ゆっくりと振り上げていた。


(……引きずり込まれたな)


グール。

腐った魔素を喰らい進化する、瘴気にまみれた魔物。

強烈な臭気で人間の意識を鈍らせ、自らの縄張りに引きずり込んで喰らう。


一度“気に入った気配”を覚えれば、何日でも――どこまでも――

執念深く、獲物を追い続ける。


考えるまでもない。


私は地を蹴り、少女と魔物の間に割り込んだ。

剣を抜くよりも速く、跳躍と同時に斬撃を振り抜く。


空気が裂ける。


――ズ、シュッ。


肉の感触が刃を通じて伝わる。

濁った血が散り、グールの首が床へ落ちた。


私は息ひとつ乱さず、少女に問う。


「……大丈夫か」


「は、はい……助かりました……!」


かすかに震える声。

それでも、意識ははっきりしていた。


「お前も、気づいたらここにいたのか?」


「……はい。気がついたら下水にいて、あの魔物が……」


私は軽く顎を引き、周囲に意識を巡らせる。

この個体――ただのグール。

探している“異質個体”とは、明らかに異なる。


(エレン! 正面、来るよ!)


エレナの声。

即座に身体を沈め、正面の闇へと剣を構える。


闇の奥。沈黙。


だがその中で、足音だけが増えていく。


ひとつ、またひとつ。

湿った石畳を叩く、ぬるりと重い足音。


そして。


唸り声。咆哮。

暗闇を破るように、数体のグールが一斉に姿を現した。


先頭の一体が、腕を大きく振り上げ――


私はその爪を、受けず、流す。


衝撃は腰のひねりへと変え、回転しながら背後へ滑り込むように動く。


「……ッ!」


刃が閃く。

振り抜かれた斬撃が、グールの腕を骨ごと断ち切った。


落ちた腕が地面を打つ。

血と肉が濡れた音を立て、石の床に散らばる。


私は一瞥し、フードを直しながら呟いた。


「……これはまた、随分湧いたものだな」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?