夜。
月の光が、静まり返った街をやさしく包んでいた。
建物の影は深く伸び、灯りの消えた路地には、ほとんど人の気配もない。
私はそっと目を閉じ、呼びかける。
(エレン……いつも通り、お願い)
(ああ――任せてくれ)
ふわりと意識が沈み、身体の感覚が内側に遠のいていく。
その代わりに――静かで、凛とした気配が満ちていくのを感じた。
私の髪は、月光に照らされるように色を変えていく。
白銀に揺れる長い髪。
そして瞳には、淡く滲む深紅の光。
ひとつ、深呼吸する。
もう、この身体は彼のもの。
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視点:エレン
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風が静まり返る。
空気が切り替わる。
そんな感覚とともに、私は目を開けた。
銀髪を束ね、フードを深く被る。
腰の剣に一度だけ触れ、柄の感触を確かめる。
「……捜索を開始する」
呟いた声は夜気に吸い込まれ、誰にも届かない。
まずは騎士団の巡回を避け、人通りのない道を選ぶ。
足音は石畳にほとんど響かず、影の中に静かに紛れていく。
(……やはり、下水道か)
(うん。騎士団も、表通りばっかりだし……)
(私の言った通り、泥と臭気を避けたがるな)
私はそのまま、何の迷いもなく地下へと足を向けた。
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水の滴る音が、石壁に鈍く反響する。
腐臭。鉄と泥が混ざり合った、重たい空気。
下水道は、いつだって人の感覚を鈍らせる。
だが私にとっては、もう慣れた場所だ。
(臭い、大丈夫……?)
(……問題ない。)
言葉を交わしながらも、私は一歩ずつ奥へと進んでいく。
その時――
ぬめった水を引きずるような音が、前方から聞こえた。
ただの水音ではない。
肉と皮が擦れる、いやな音。
(……何かいる)
気配の“重さ”が違う。
ただの獣とは、明らかに異なる。
私はすぐに跳躍し、音の方角へ踏み込んだ――
が、その瞬間。
「きゃあああっ!!」
――少女の叫び。
即座に気配を読み取り、迷わず跳び込む。
闇に濡れた空間。
そこにいたのは、膝をついて震える少女と、唸り声を上げるグール。
腫れた皮膚、白濁した目。腐敗の進んだ腕を、ゆっくりと振り上げていた。
(……引きずり込まれたな)
グール。
腐った魔素を喰らい進化する、瘴気にまみれた魔物。
強烈な臭気で人間の意識を鈍らせ、自らの縄張りに引きずり込んで喰らう。
一度“気に入った気配”を覚えれば、何日でも――どこまでも――
執念深く、獲物を追い続ける。
考えるまでもない。
私は地を蹴り、少女と魔物の間に割り込んだ。
剣を抜くよりも速く、跳躍と同時に斬撃を振り抜く。
空気が裂ける。
――ズ、シュッ。
肉の感触が刃を通じて伝わる。
濁った血が散り、グールの首が床へ落ちた。
私は息ひとつ乱さず、少女に問う。
「……大丈夫か」
「は、はい……助かりました……!」
かすかに震える声。
それでも、意識ははっきりしていた。
「お前も、気づいたらここにいたのか?」
「……はい。気がついたら下水にいて、あの魔物が……」
私は軽く顎を引き、周囲に意識を巡らせる。
この個体――ただのグール。
探している“異質個体”とは、明らかに異なる。
(エレン! 正面、来るよ!)
エレナの声。
即座に身体を沈め、正面の闇へと剣を構える。
闇の奥。沈黙。
だがその中で、足音だけが増えていく。
ひとつ、またひとつ。
湿った石畳を叩く、ぬるりと重い足音。
そして。
唸り声。咆哮。
暗闇を破るように、数体のグールが一斉に姿を現した。
先頭の一体が、腕を大きく振り上げ――
私はその爪を、受けず、流す。
衝撃は腰のひねりへと変え、回転しながら背後へ滑り込むように動く。
「……ッ!」
刃が閃く。
振り抜かれた斬撃が、グールの腕を骨ごと断ち切った。
落ちた腕が地面を打つ。
血と肉が濡れた音を立て、石の床に散らばる。
私は一瞥し、フードを直しながら呟いた。
「……これはまた、随分湧いたものだな」