鳥たちのさえずりが、朝の澄んだ空に広がっていく。
それに重なるように――鐘が鳴った。
低く、力強く、空の高みまで響き渡るその音は、
今日もまた、ベルノ王国の一日が始まったことを告げる合図。
この鐘は、王国の象徴。
同時に、平和の訪れを民へ伝える“祈りの音”。
私は――その鐘の音を祈りで迎える者。
金色の髪に碧い瞳。
聖女としての使命を受け継ぎながらも、まだ見習いの身。
人々を癒す力を持ちながら、祈ることしかできない、ひとりの少女。
けれど私は、
この手にできることを一つひとつ――信じて、祈り続けていた。
その時だった。
「エレナ様っ!!」
バンッ!!
重厚な扉が勢いよく開かれ、
慌てた様子の男性が教会の中へと駆け込んできた。
扉が壁に打ちつけられ、鈍い音が石造りの空間に響く。
私は顔を上げ、彼の姿を見つける。
息を切らし、汗をにじませたその男性は、何かに怯えるように目を見開いていた。
「こんにちは。本日も、いいお天気ですね。……どうかされましたか?」
私は立ち上がり、微笑んで声をかける。
ほんのわずかでも、不安を和らげてほしいという願いを込めて。
「ゆ、昨晩……! この近くにグールが出たんだ!!」
グール――
人を喰らう魔物。
成人男性と同じほどの体格を持ち、緑色のぬめりを帯びた肌に鋭い爪と牙。
人の姿を模しながらも、感情を持たない異形。
この国でグールが現れることは、まずあり得ない。
なぜなら、王国には強力な騎士団が常駐しており、魔物の侵入は徹底的に防がれているから。
「グール……ですか。ギルドにはご連絡を?」
「し、したよ! でも……なんか、様子がおかしいんだ! 痕跡も少ないし、まるで消えたみたいで……!」
男性の声には、明らかな動揺がにじんでいた。
おそらく、ただのグールではない。
突然変異か、あるいは知性を持った個体――どちらにしても、厄介な存在だ。
「だから……エレンに頼みたいんだ!
ギルドを通すより、教会にお願いした方が早いって、みんなそう言ってて……!
お願いだ……!」
“エレン”――その名前を聞いた瞬間、私は一度、目を伏せた。
ギルドが誇るS級冒険者。
魔法全盛のこの世界において、剣技のみで数々の魔物を打ち倒してきた、謎多き剣士。
その名は、街でもよく耳にする。
けれど、エレンはただの戦士ではない。
私と――この身体を共有して生きている、もうひとりの魂。
(また、直接依頼か……最近ではギルドより教会に頼む方が増えてきたな)
その時、私の頭に響いたもうひとつの声——エレンの声。
(仕方ないよ。魔物の被害は深刻だし、みんな、信じられるものを探してるんだよ)
私はそっと心の中で答える。
(フ……その分、私たちが役に立てるのなら、悪くない)
「……わかりました。しっかり伝えておきます」
私がそう告げると、男性は胸を撫で下ろし、深く頭を下げた。
「助かるよ……。もうすぐ、孫が生まれるんだ……だから、どうしても不安で……」
その手は、わずかに震えていた。
私はその背中が教会を出ていくのを、しばらく見つめていた。
⸻
ギルドの中は、いつも通り人であふれていた。
酒場としても機能しているこの場所は、昼間から賑やかな喧騒に包まれている。
(うーん…今日もお酒の匂いが強い)
(贅沢な悩みだ。私は、飲むことすらできんのだぞ)
(もう少し待ってね。私がちゃんと“飲める歳”になったら飲ませてあげるから……)
(……楽しみにしておこう)
私たちは、一つの身体に二つの魂を宿す存在。
昼は私――聖女見習い・エレナ。
夜は、もうひとりの私――剣士・エレン。
互いに尊重し合いながら――
一つの命を、ふたりで生きている。
受付に向かうと、笑顔の女性が声をかけてくれた。
「ようこそ、ギルドへ!」
「昨晩、この近辺でグールが出たと聞きました。詳細をお伺いできますか?」
私が静かに告げると、受付嬢の表情が一瞬で引き締まる。
「はい……騎士団も警戒には出ているのですが、まったく姿が確認できていなくて……」
「冒険者の方たちも捜索してくださっていますが、今のところ成果は出ていません」
(……ほう。その規模で痕跡も見つからぬとは。よほど慎重か、あるいは知能の高い個体か)
(騎士団って……下水道の方とか、ちゃんと見てくれてるのかな?)
(あの者たちは、泥と臭気を嫌う。威厳ばかりを気にして実務を後回しにする癖がある。過度な期待は禁物だな)
私は苦笑しながら、小さく頷く。
「……承知しました。“エレン”に、この件を引き受けてもらいます」
そう告げると、受付嬢の顔がぱっと明るくなった。
「本当に助かります!
エレンさんに……どうか、お礼をお伝えください。
無償で依頼を受けてくださって、本当にありがとうございますって……」
「……はい。必ず伝えます。きっと、彼も喜びますよ」
(……ふむ。……悪くない)
エレンの声が、どこか満足そうに響く。
その声を聞いて、私は自然と微笑んでいた。
やがて夜が来れば、この身体はエレンに託される。
“祈る者”と“戦う者”。
ふたつの魂で、一つの命を――守るために。
今日もまた、私たちは歩みを進めていく。