この大学生の女は、彼氏に振られたばかりだった。原因は彼の浮気だった。
「もう私一生恋愛しない!!!」
そう嘆いているのも休日深夜の居酒屋で、気の知れた相手と一緒に飲んでいたからだった。元彼は端的に言ってクズだったがそれでも彼に惹かれたのはその破天荒さと若さゆえのエネルギッシュさが要因だったのは間違いない。
自分が心から好きだった人はそんなことをする人間だと知り、ショックの反面、正直勢いで振ってしまったが故に全くの後悔が彼女の中に残っていないわけでもなかった。
「ねえ、もうやめなよ」
そう声をかけてきたのは目の前に座っている相手。この女の幼馴染だった。その幼馴染、男は呆れたように口を開く。
「そうやって乱暴に飲むのも、浮気するような奴に未練振り切れないのも、自分を傷つけるだけだよ」
この男とは小学校から地元の大学の進学まで、ずっとエスカレーター的に一緒になっていた。昔からずっといたから仲も良かったし、今でもこうやって気心を許して共に酌を交わすくらいには。
「そう言われてもさ」
女が不貞腐れたように呟く。それに応えるようにして男が話す。
「俺と付き合ってみない?」
それを聞いて女は吹き出した。面白かった、というよりは衝撃が強かった。朴念仁で恋愛になんか興味がなさそうな面をしているよく知る男が急に迫ってきたからだ。
「あんたが私と? 酔ってるんでしょ」
「割と本気で言ってるんだけど」
「……」
ーーーーーーーーーーーー
という以上のが昨クール放送アニメ「幼馴染が私を掴んで離さない!」の最初の場面である。その少女漫画っぽい恋愛描写と界隈で人気になっていたライトノベル作品だという特徴でそれなりに話題を呼んだ。
それなり、というのは世間ではそこまで話題にならなかったけどアニメファンの間では「面白かったよねー」と話題に上がるくらいの温度感。個人的にも楽しんで見ていた作品だ。
「と、いうことで、行こう。私の家に」
「……分かった」
初デートカラオケ終わりにその作品の原作漫画を借りる、という目的で葵の家に行くことになった。
高校生の男が付き合っている彼女の家に行く、というのはかなり大きな意味を持つ。心理的な意味でも、完全に相手を信頼していないといくら彼氏といえども異性の人間を家にあげることはないだろう。
そう言っているうちにも、葵の家に近づいていく。
「着いたよ……あ」
家は住宅地にある一軒家。
葵の口から声がこぼれたのは葵の家の前に女の人がいたからだ。長身で髪を伸ばしていて、くっきりとした目鼻立ちがどことなく葵に似ている気がする。
「お姉ちゃん」
「……お。葵か」
その呼びかけに答えた葵のお姉さんは笑顔を葵に一瞬向けた後にすぐに真顔になった。俺でもさすがにヤバいと思った。目線が明らかに俺に向いていたからだ。
季節外れの冷たい風がお姉さんと俺の間に吹く感覚がした。
「あんたは誰? 葵の友達?」
「友達というかなんというかぁ……」
霧島さんにも俺のことは彼氏だって紹介していたから言ってもいいよな。でも「彼氏です」なんて名乗ったらなんか非常にまずいことが起こる気がする!
「お姉ちゃん、私の彼氏だ」
「は?」
葵にどうしようかとアイコンタクトを送ろうとしたら言ってくれた。ちゃんと家族の前でも俺のことは彼氏だと紹介してくれるらしい。そのことに嬉しさも感じつつも、若干の恐怖を感じる。目線だ。明らかに刺してきている。
「……私は用事があるから出ないといけない。絶対に葵に変なことするなよ」
言われなくても。よほど急いでいたのかお姉さんは駅の方へ走り出していってしまった。葵曰くバイトらしい。
「ごめんね、絶対にお姉ちゃんと会わせたら何か言われるって思ってたから蜂合わないようにしようと思ってたんだけど」
「いや、全然いいよ。姉妹仲いいんだね」
「とても。というか
「とりあえず。邪魔が入った。家に入ろう」
「あ、うん、そうだね」
お姉さんがいたんだから両親のどちらかもいるだろう。一応挨拶だけでもしといたほうが良いのだろうか。そう思って葵の後をついて家の中に入るものの待っていたのは電気のついていないことからくる暗さと、静寂のみ。
「あれ? 親は……」
「言ってなかったけ、うち共働きだよ。帰ってくるのはどっちとも、一時間以上は後だけど」
思わず大きなため息が出そうになった。今の男女共同参画社会の波に乗れていて素晴らしい家庭だ。しかしこの家で二人きりというのはかなり意味合いが変わってくる。
「"変なことするな"ってそういう事かよ」
「そうだろうね」
淡々と受け答えをする葵を横目に俺はガチガチに緊張していた。別に俺から何かを仕掛けようだとかそんなことは毛頭思っていないがそれはそれとして事実としてある密室に体のどこかしらが外れそうになるくらいには平静を保てていなかった。
「私の部屋、どうぞ」
「あ、どうも」
そう案内されて葵のドアを開ける。まず最初に目に入ってきたのは部屋を分つように置かれた二つの机だった。これについてはすぐに合点が行く。さっきのお姉さんと共同で一部屋を使っているんだろう。
この机で分けられた一部屋は右側と左側に分離しているのだが、特に目を引くのが右側の方だ。男女関わらず多くのアニメキャラクターのグッズが置かれている。いわゆるオタク部屋というやつだ。
左側は逆に特徴がない。参考書がたくさん積まれていることは目立つがそれくらいだ。そして最近知ったんだが葵は頭がいい。つまり――
「やっぱ葵って頭いいから参考書とかたくさん持ってるんだね」
「いやそっち琴乃の方」
「なんと」
あまりに予想外だった。でもすぐに思い出した。そういえば俺は漫画を借りにきたのだ。もちろんその漫画を所持しているのは葵だろう。
「葵って結構……オタク?」
「まあね」
そう彼女は鼻を鳴らすと俺に向き合った。
「漫画のことは一旦後でね」
そして一瞬の間があいた。
「もし私が蒼真くんとキスしたいって言ったら、できる? 情熱的なベーゼを」