「私の彼氏になってくれない?」
「え?」
いつもの無気力な声に、少し張りを加えた緊張しいの声のようにも聞こえた。でもその顔は皆に見せる無表情のままで、告白された。
他人と接する時、多少なりともその人の性格や考えていることが分かることがあるだろう。
もちろん自分に対していいイメージを持っている、悪いイメージを持っているそれぞれあるかもしれないがそれでも、コミュニケーションを取る上で相手の顔色を伺うという行為は必要だと思っている。
だからこそ俺
「
「……あ、おはよう」
教室にはまだ俺と櫻木さんの二人しかいない。
朝、クラスに入って机の上にあった配布物を手渡した相手は俺の一つ後ろの席に座っている
表情が変わらない。発話と食事以外で口を動かしているのを見たことがない。笑顔を見た記憶すらない。
友達の女子相手と話す時も常にこの調子なので別に不機嫌ということでもなくこれがデフォルトらしい。
見た目のジャンル的には清楚系というのだろうか、黒髪ロングでどこかのお嬢様みたいな雰囲気がある。まあ相当に可愛い。
そして俺が櫻木さんのことを考えているのには、何もいつも無表情でそっけないからではない。
「
櫻木さんが後ろから話しかけてくる。それに応じると彼女は口を開いた。
「数学の宿題はもう終わってる? 提出はまだだけど私昨日終わらせちゃったんだよね、古渡くんはどう? 結構量が多くて大変だなって思ったんだ。というより作業っぽい問題が多いなから退屈だったのかな、公式に当てはめたら終わりみたいな問題が多かったから時間が長く感じたのかな。少しサボっちゃってもいいかなって思ったんだけど結衣が言うには今年のこのクラスの数学担当の先生、そう、中年の男の人の。あの人めちゃくちゃノートチェックしっかりしてて問題飛ばしてたら呼び出されるらしいんだよね、そんなのやだって思って。絶対怒られるじゃん、だからちゃんと……そう、だから古渡くんはもう終わらせたのかなって。時間かかりそうなやつだったからさ」
「まだ……終わってないかなあ……」
「やっぱりまだだったんだ、いやむしろもう終わらせてる人の方が少ないと思うけどね、――」
表情もほぼ変える事なくひたすら呟く櫻木さん。
正直に言おう、あまりにも見た目のイメージと実際の性格が、あまりにもかけ離れている。
この櫻木葵と言う人間と出会ってからまだ1週間と経っていない。
高校2年生のクラス替えで前後になり、周りからミステリアスな雰囲気を不思議がられている、俺が知っているのはそこまでのはずだ。
しかし周りから聞くイメージと違ってめちゃくちゃに喋る。
櫻木さんと他の女子の会話に側で聞き耳を立ててみたこともあったが明らかにテンションが俺相手の時とは違う。
話しても数言で間違いなく率先して会話の中心になろうとする人物ではない。
そうすると一つの考えが浮かんでくる。あまりにも邪推だ。
邪推というやつなのかもしれないが、
あまりにも非モテの発想だがここまでくるとそんな考えが頭をよぎってしまう。いや、正直に言おう。俺はこの櫻木葵という女子のことをもっと知りたい、と考えている。
「――それでね、今日は相談したいことがあるんだ」
会話はすでに本題へ向かいつつあるらしい。櫻木さんと話し始めて1週間、いや櫻木さんが俺に話し続けて1週間。自分に女子が積極的に話しかけてきてくれるというシチュエーションはまんざらでもない。
「早くしないと他の人が来るかもしれないから手短にいうと……」
それを言うなら、数学教師のくだりの話は間違いなく要らなかった気がする。
「私の彼氏になってくれない? 名前だけ」
「えっ」
変な声が出てきた。櫻木さんの声もやや強張っている気がする。いや、あまりにも方向性が予想外な方向に飛んでいったのでびっくりしてしまった。
「それは、なんで突然そんなことを?」
「なってくれるの?」
「いや、せめて何でそんなトンチキなことを言い出したのかが知りたいんだけど」
「古渡くんが優しいからかなあ」
モテない男が言われる褒め言葉ランキング第一位みたいな理由で、俺は交際ごっこを迫られているらしい。
「じゃあもしかして俺のことが好きなの?」
「そう言うわけじゃないかなあ」
「でも俺が彼氏になるんでしょ?」
「だから言ったとおり
「普通に付き合うならまだしも何でわざわざそんなことしなくちゃいけないの?」
「彼氏がいたら人生多分もっと楽しくなると思うから。私こんな性格だから彼氏なんて絶対作れないし」
それはどの性格のことを言っているんだ。ミステリアスな他人に向けるペルソナなのかそれとも俺に対するお喋りマシン人格のことか。いや、そもそも俺に対する態度が本当の櫻木さんだっていう保証はどこにもない。
「じゃあ俺にストレートで"本当の彼氏になって"って言わなかった理由は何?」
「彼氏っていうのは好きな人がなるポジションだから」
だいたい掴めてきた。詳細な理由はよくわからんが恐らく櫻木さんは何らかの理由で俺に彼氏になってほしいと言ってきた。しかし櫻木さんは、俺に対して彼氏になるに足る
つまりこの1週間俺にずっと話しかけてきてくれたのは俺が何かしらの基準をクリアしていたかを見るためだったのだろうか。
それにしても話の全てが唐突だという気持ちは拭えない。
「それとも古渡くんは彼女がいたりする?」
「いや、別に……いないけど」
「私の提案はね、世間的に言えばお試しで付き合うみたいなもの。私の発言の動機も彼氏が欲しいから、これだけ、ホントに」
櫻木さんはその小さい手を合わせて俺としっかり目を合わせる。
「お願い」
櫻木さんの行動がいまだに全てわかったわけではないが、ここまで可愛い女子に迫られて断る男など存在するというのか。
「……わかりました、櫻木さんは名義的に彼女です」
「やった」
そこで櫻木さんが握り拳を胸の前まで持っていってガッツポーズをする。俺が目をやったのはその行動自体ではなくその時の様子だった。櫻木さんが薄く微笑んだ。初めてこの人の笑顔を見た。胸を打たれたかのような衝撃が走った。
「あ。あと、やっぱり古渡くんからしたら彼女は自分のことを好きだっていう保証が欲しいかな」
「保証? いやでも名義彼女なんじゃないの?」
「さっきも言ったけどそれは別にお互いのことを恋愛的に好きじゃないからお試しって意味で言ったの。だからもしお互いがお互いのことが好きになったら正式なカップルになるよ」
そんなこと言ってたか? いや、言ってたんだろう。
「じゃあお互いがお互いのことを好きになれない期間がずっと続いたら……ご破綻ってこと?」
「南無三」
それは避けたい。
「じゃあ一つだけルールを決めようか。私が古渡くんを好きになるためにも、古渡くんが私を好きになるためにも、この
櫻木さんはそう言うとここまで机一つ分という適度な距離を保ってきた俺たちの間を一気に詰めてきた。
「私が一日一回古渡くんに『好き』って伝える。どう? 恋人らしくない?」
一体何を言っているんだ、と声に出しそうになった。
「
小声でそう言って、櫻木さんはわずかに顔を赤らめて小走りで廊下に出ていった。小声で言ったのは誰かが登校して来る足音がしていたからか。