「ラグナ!待って!ねえ、ラグナッ!!」
少し出遅れたはしたが、メルネがラグナに追いつくことは容易であった。
既に引退した身とはいえ、元は《S》
対して今のラグナの身体能力、そして運動神経はお世辞にも優れているとは言えず、実にお粗末なものであることは周知の事実。その上、ラグナはここに辿り着くまでに、元々あってないまでに少ない体力を限界以上に費やしたのだ。
故に例えるなら、これは亀と兎の競争。加えて兎には油断も慢心が微塵もまるでない。一体どちらが勝つのか、その結果は見るまでもなく明らかである。
目と鼻の先にある小さな背中は、未だに懸命にも離れようとしている。しかし、メルネがその気になればいつでも詰められる程、二人の距離は狭まっていた。
必死に、切実にメルネはラグナのことを呼びかける。だが、彼女の呼びかけに対してラグナは応えようとしない。応える素振りをまるで見せてくれない。
──……もうっ!
そんな意固地なラグナの態度に、メルネは遂に業を煮やし。直後、辛うじて開いていたラグナとの距離を瞬く間に詰め切り、そして腕を伸ばし。彼女はラグナの手を掴んだ。
「ラグナ!」
メルネに手を掴まれては、ラグナも流石に止まらざるを得なかったのだろう。その場に留まったラグナの手を、出来るだけ優しく包み込むように握り締めながら。メルネは諭すようにラグナに言葉をかける。
「大丈夫。大丈夫よ。だから逃げようとしないで?一旦、とりあえず、今は落ち着きましょう?ね?」
我ながら、聞いていて滑稽だった。怒りすら込み上げてくる。
全くと言っていい程に中身が伴わない、何もかもが空虚で役立たずな言葉────もはや、こんな言葉しか今のメルネは言えなかったのである。
「……」
ラグナは黙っていた。黙ったまま、メルネの方に振り返ることもしない。そのやたら不穏な様子に、不安を煽られ焦燥に駆られたメルネが、慌てて呼びかける。
「ラグナ?どうしたの……?」
メルネが訊ねて、数秒後。ようやっと、ラグナがその口を開かせた。
「……てた」
だが、その声はか細く小さく。全てを漏らさず聞き取るには些か苦労を要するもので。そして今どうしようもない危機感に迫られているメルネでは、とてもではないが聞き取れる筈もなかった。
「え……?」
困ったような声を漏らすメルネ。そんな彼女に対し、ラグナが再度呟いた。
「違うって思ってた」
……流石に、今度ばかりははっきりと。一言一句間違いなく、メルネは聞き取った。ラグナの、怒りと悲しみと、そして淋しさ。それら全てがぐちゃぐちゃの滅茶苦茶に、ごちゃ混ぜにされたような。
そんな、言葉では言い表せないような声音の、言葉を。
「ち、違う?ちょ、ちょっと待ってラグナ。一体何が────
予想だにしていなかったその言葉に、容易く困惑と混乱の渦中に突き落とされたメルネ。彼女はその言葉の意味を、真意を訊ねようと。依然情けなく震えて揺れる声で、ラグナに訊こうとしたが。
────」
が、その途中で。まるでメルネの言葉を遮るかのように。突然、今の今までこちらに背を向けていたラグナが、振り向いた。
その時メルネが目の当たりにしたものは────正しく、絶望そのものだった。
止め処なく溢れて零れて落ちる、透き通って輝く涙。悲哀と憎悪に塗れた表情。
そしてこちらを射殺さんばかりに鋭く、尖り切った眼差しを宿すその瞳は、
メルネは絶句する。言葉を失ってしまう。当然だろう。当たり前だろう。
何故ならば、それはもうメルネの知るものではなかった。見たことがないものだった。
『嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!』
あの時とは比べ物にならない。否、比べること自体が烏滸がましく、そしてお門違いで、甚だしい。
そもそも、あの時の場合は錯乱に近く、気の動転のようなものだ。その証拠に少しすればラグナは落ち着き、どうにか収まることができていた。
……だが、これは違う。間違いなく、違う。全身を衝撃に打たれながら、メルネはそう思う。思わざるを得ない。
まさか、まさかラグナが。あの天真爛漫で、燦々と他を照らす太陽の如きラグナが、こんな。ここまで、これ程までに。筆舌に尽くし難い、壮絶な泣き顔を、するなんて。
メルネは知らなかった。見たことがなかった────そして知りたくも、見たくもなかった。
大事で大切だった彼女の中の何かが、儚い破砕音を響かせると同時に。派手に崩れ落ちて、周囲に散らばって、消えて、失われていく。
手遅れ。もはや手の施しようがないまでの、圧倒的で致命的な手遅れ。それを無理矢理に、否が応にもメルネは理解させられる。確と理解し、受け止めること。彼女はそれを強いられる。
──ラグ、ナ……。
ラグナが泣いたという現実。ラグナが傷ついたという事実────否、泣かせた最悪の現実と、傷つけた最低の事実。その二つを。
──……あ、あぁ、ぁぁぁ……っ!
無駄になった。無駄だった。今までの行い、その全てが。この瞬間に徒労に終わり、水泡に帰したことを、メルネが悟る。悟った彼女は、胸の奥を掻き毟るような、声にならない絶叫を。弱々しく、惨めったらしく、心の中で漏らす。
そして思い知った──────────結局メルネ=クリスタという女は。優しくもないただ甘いだけの偽善者で、事なかれ主義を貫かんとした傍観者だったのだと。
自分が
「クラハは……クラハ
ラグナの声音は酷く悲しそうで、淋しそうで────そして柔らかな優しさが滲んでいて。その言葉を、もっと言えばその名前を耳にした瞬間。
スゥッ、と。メルネの頭の奥が、冷えた。
──………………は……………?
理解、できなかった。どうしてそんな声色で、どうしてそんな風に。その名を口にできるのか。
ついさっき。今し方、あんな風に。冷酷に残酷に、放り捨てられたというのに。なのに、一体どうして。どうしてそんな、全てを赦すような、甘く蕩けるような、追い縋るような。そんな声音で、クラハの名前を口にできるのか。
普通ならば、声を荒げるべきだろう。ここは怒りを剥き出しに、喉を潰さんばかりに叫び、クラハを責め立てる場面だろう。
だというのに、何故────呆然自失とするメルネの頭の中で、そのような疑問が次から次に沸いてくる。
どうして?どうして、どうして?どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして───────────
「…………ねえ、ラグナ」
メルネは理解に苦しんだ。メルネは理解できなかった。メルネは理解したくなかった。
処理し切れないその疑問が、あっという間に彼女の頭の中に蔓延して、埋め尽くしていって。
「もう、忘れましょう?」
そして気がついた時には、もう。既に、メルネはラグナにそう言っていた。