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崩壊(その二十一)

「…………え……?」


 最初、メルネは目の前の光景が信じられなかった────否、信じたくなかった。


 まるで時間が止まったかのように、メルネの思考が停止する。しかしそれはあくまでも彼女のしがない錯覚に過ぎない。


 現に時間は着実に一秒ずつ過ぎていくし、意識はともかく、肉体はそれを確かに認識していた。


 それと同時にメルネの精神は強靭であり、余程のことでもない限り彼女の正気が戻らないことはない。そしてそれは今も例外ではない。


 ただそれでも、そんなメルネであってもこの時ばかりは流石に我に返るのに数秒を要しはしたが。


 目の前にあるその光景が確かな現実であるということ。それを数秒かけてようやっと、メルネは認知した。


「ラグナ……?ど、どうして?何でここにいるの……?今日はもう帰ったはず、じゃ…………ッ!!」


 目の前の光景────視線の先に立つラグナの姿を目の当たりにしながら。困惑と動揺を微塵も隠せず、震える声を引き攣らせ、掠れさせながら。メルネが恐る恐る呟くようにそう訊ねる。


 しかしその途中で、メルネは気づいた。重大で深刻なことに、不運にも彼女は気づいてしまった。


 弾け散る火花のように、駆け抜ける閃光のように。メルネの脳裏を、言葉が過ぎる。


『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』


『ただの無力で非力で小っぽけな!どこにだっているただの一人の女の子だあ!』


『あんな何の取り柄もない!ただの女の子が!ラグナ先輩な訳ないでしょうにぃ!?』


『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ』


 瞬間、堪らずメルネは目を見開かせ。喉奥から声にならない悲鳴を小さく漏らしてしまった。


 ──まさか今の全部聞かれて……っ!?


 否、まだ救いはある。何故ならば、正確に言えばまだ可能性の話なのだから。あくまでもそうかもしれないという、可能性の話にまだ過ぎないのだから。


 ……だが、良くも悪くもそれは可能性の話。そうでない可能性とそうである可能性────この場合、一体どちらが高いのか。


 それをメルネは、十二分にわかっていた。だからこそ、ここまで恐れたのだ。


 果たしていつからだろう。いつからそこに、ラグナは立っていたのだろう。数分前からか?それとも十数分前からか?


 だがしかし、それを今更気にしたところで、どちらにせよもう無意味だ。


 そのことを────






「────」






 ────ラグナの表情が、言葉よりもずっと雄弁に物語っていたのだから。


 ごく僅かで微かな欠片程に、辛うじて残された矮小な希望を。握り潰され、踏み砕かれ、木っ端微塵に壊されたメルネは。背中に極限にまで冷やされた氷柱でも突き立てられたような、悪寒と怖気に駆られながらも。それでも、懸命にどうにか言葉を紡ごうとする。


「ち、違うの。これは違うのよ。ま、間違い……そう何かの間違い、とか……で……」


 けれど、今唐突に突きつけられた最悪の現実は。容易くあっという間にメルネから平静さを奪い尽くしており。その結果、そんな中身のない、何の根拠もない。要領を得ない、説得力など皆無な、しどろもどろの戯言を彼女に垂れ流させる。


 ──どうしようどうしようどうしようどうしてどうしてどうして。


 メルネの思考は無様な空回りを続ける。考えようともしても、考えた端からそれが零れ落ち、どうしたって上手く纏まらない。纏められる訳がない。


 動揺と困惑と混乱の末に、メルネは。一歩、無意識に前へと踏み出し。


 それと同時に、ビクリと。ラグナがその華奢な肩を小さく跳ねさせ。そして怯える小動物のそれのように、その場から一歩後ろへと下がるのだった。


 ──え……?


 そんなラグナの行動を目の当たりにしたメルネの頭の中が、一瞬にして疑問で満たされ、埋め尽くされる。わからなかった。理解できなかった。


 どうしてラグナがそのような反応をするのか。どうしてラグナがそんな反応を、よりにもよって自分に対してするのか。


 どうしてそんな怯えた────哀絶と諦観と、そして絶望が入り混じった表情かおを、自分に向けるのか。それがどうしても、メルネにはわからず、理解できないでいた。


「ラ、ラグナ……?」


 故にその理由を問おうと。メルネは情けなく震える声音でラグナを呼びかけるが。


「…………っ」


 その声にラグナが答えることはなく。口を閉ざしたままに、メルネから苦しげに、辛そうに顔を逸らしてしまう。それを見やった彼女の胸中に、嫌な予感が急速に広がり、駆け巡り、そして蔓延った。


 ──嘘嘘嘘止めて止めて止めて止めて。


 メルネは知っている。嫌という程に、こういった嫌な予感がよく的中してしまうことを思い知っている。そしてそれは決まって、最悪の結末を招く。


 だからこそ彼女は必死に追いやった。その予感を消し去ろうと、押しやった。追いやり、押しやり、忘れてしまおうと。そもそもそんなもの感じてもいないと、無理に虚勢を張った。


 が、やはりというべきか────メルネの努力が報われることなど、なかった。


 ダッ──数秒そこに留まっていたラグナだったが、堪えられなくなったように突如踵を返し。そして脱兎の如く、駆け出した。


「ラグナッ!?」


 まるで悲鳴を上げるかのようにラグナの名を叫ぶメルネ。しかし、それでラグナが立ち止まることはなく。彼女の視界から、その小さな背中がどんどん遠去かってしまう。


 ──何でよ!?どうして、どうしてこう、なるの……!!


 これは神の制裁か、それとも悪魔の遊戯なのか。運命による理不尽な仕打ちを前に、メルネは憤られずにはいられない。


 ラグナをこのまま放って捨て置く選択肢などメルネは持ち合わせていない。続けて彼女も慌てて駆け出し、執務室から立ち去る────その直前。


「許さない」


 と、背を向けたまま。恐ろしいまでに冷たい声音でそう言い残してから、彼女は執務室を後にした。


 再度静まり返る執務室。この静寂と沈黙を最初に破ったのは、クラハだった。


「これで僕は失礼します。今までお世話になりました」


 まるで何事もなかったかのような、非常に淡白で抑揚のない、無感情な声で、無表情にそう言い。そうしてクラハもまた、執務室を後にしようとその場から歩き出す。


 ロックスもグィンも、彼を呼び止めようとはしない。黙ったまま、遠去かるその背中を見つめるだけだ。


 そうしてクラハも執務室から去ってしまい。少し経ってから、グィンが力なく呟く。


「どうしてこうなったんだろうねえ……」


「……わかりませんよ」


 彼の呟きに対し、ロックスもまた力なくそう言葉を返すのだった。

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