よく晴れた日の午後。
伯爵令嬢エレナは王都の大通りで立ち止まり、形の良い眉毛を吊り上げていた。
エレナの足元には、標準的な格好をした貴族子弟が座り込んでいる。泣いているようにも見えるが、黒く長い前髪が目元を覆ってしまいはっきりとしない。
「ロバート、もう一度言ってくれるかしら。わたくしの聞き間違いかもしれないから」
「だっ、だから……一文無しになったんだよ……屋敷もなけなしの財産も全部取られちゃったんだよ……」
これ以上ないほどにエレナの眉毛が吊り上がり、怒気が膨れた。道行く人が驚いて振り返るほどである。
「うかうかと屋敷を明け渡すとは馬鹿ですか! 子爵家の跡取りとして情けないと思わないの?」
「ひーん」
「だいたい、わたくしが渡したお金はどうしたのですか」
「……えっと」
ロバートが明らかに狼狽えた。
視線は左右に忙しく動き、挙句、のそのそとそこから逃げようとする。
「お待ちなさい、ロバート! お金はどうしたのですか」
様子を窺っていた人々は首を傾げた。なぜ、王国屈指の伯爵家令嬢が子爵令息と思しき男にお金を払うのだろうか。
令嬢が彼のパトロン――という感じでもない。その子爵令息らしき男に、これといったとりえがある様に思われないのだ。
そうこうしているうちに、ロバートと呼ばれた男が飛び上がり、その場から走って逃走を試みた。
「お待ちなさい、ロバート!」
エレナの日傘が、すっと伸びてロバートの行く手を遮った。
「ひっ……」
尚も逃げようとするロバートの前に回り込んだエレナが、仁王立ちになった。美貌が怒りに歪んでなかなかの迫力である。
「は、はは……」
「わたくし、あなたに支払ったわよね? わたくしのお父様の淫らなスキャンダルの口止めのために」
「は、はい……イタダキマシタ……」
そうよね、と、エレナは優雅に頷く。周りの人々は、社交界のマナーに則って醜聞など聞こえなかったフリを急いでする。
「その口止め料として渡したお金は、どうしたの?」
「つ……」
「つ? はっきり仰い」
「使いました、カードで!」
「なんですって? 全部使ったの?」
「はいっ、全部負けました、スッカラカンのすってんてん、借金が増えた次第です!」
馬鹿ですか、と、エレナの静かだが冷ややかな声が当たりに響いた。
だいたい、と、エレナはロバートの傍に座り込んだ。令嬢にあるまじき行為である。周りの人々は、社交界のマナーに則って令嬢らしからぬ振る舞いなど見なかったフリを急いでする。
「わたくしは、そのお金で借金を綺麗にし、由緒あるお家の再興をなさいと申し渡しました。覚えていますね?」
こくこく、顔面蒼白のロバートが頷く。美貌のエレナの放つ怒気がたまらなく恐ろしいのだ。心なしかエレナの複雑に編み込まれた金の髪が逆立った気さえ、する。
幼いころから彼女のことは知っているが、こんな恐ろしい子だったのかと今更しった。
「それなのに、お金がないとは何事ですか!」
「も、もうしわ……け、ご、ございませ……」
ひぃ、とロバートは頭を抱える。
「まったく。やり直せるだけの金額を渡したはずです。それなのになんて有様……」
普通逆だよ、と、ロバートは内心突っ込んでいた。
そう。
普通は、脅迫したロバートが優位にたち、親のスキャンダルをネタにゆすられた被害者であるエレナが神妙にするはずである。
だが、被害者であるはずのエレナが圧倒的優位である。
「……ロバート、聞いてるの?」
「は、はいっ」
「幼なじみのあなたの家が、世界恐慌の煽りで困窮しているのは知っています」
ロバートの家は元々、エレナの家と同じく伯爵家だった。
だが、父と祖父が手を出した商売が失敗し、貴族が商売に手を出すからだと笑われ、なにくそと奮起したが状況は悪くなる一方であった。
ついに爵位を売り飛ばすという最終手段に出たものの、それでも借金は増える一方だった。
そうしてロバートの祖父と父は心労がたたって相次いで病死し、莫大な借金が息子のロバートに残された。
そしてこのロバート、父祖を上回る商才のなさ、金策はことごとく裏目に出た。
「そ、そうなのさ。……だからさ、お金を都合してくれないかなーって思って……ほ、ほら、きみのお父上が……五番街に若い愛人を住まわせてるのを見ちゃったから……」
「そのガセネタはもう前に使ったでしょう。やり直し」
「え、えっと、えっと……きみのお母上がオペラ観劇中にアルコールに酔って大佐に介抱してもらって、そのまま朝まで……」
「そのネタは間違いだらけよ。アルコールに酔ったのはお母さまではなくてわたくし。介抱してくださったのは大佐の奥方様。その日のうちに帰りました。裏どりが曖昧なままでは、誰もお金を支払いません。やり直し」
ちぇ、と、ロバートは小石を投げる。ネタは尽きた。残念ながら。
「はい、残念。強請り峻り、失敗ね。もっと精進なさい」
エレナはすっと立ち上がり、優雅に日傘を差した。幼なじみの美貌に、ロバートは思わず目を細める。金髪は流れるようであるし、整った顔立ちとスタイルは美術館の彫刻のようである。
「なにしてるの。立ちなさい」
「え?」
「貴族が道端に座り込むなんてみっともない。さ、わたくしの買い物に付き合いなさい。そうね、お礼としてお小遣いあげないこともないわ」
「小遣いって……俺は子供かよぉ……」
「まったく。お金がないとは何事ですか」
人々はこの数年後、仰天する。
「エレナ嬢とロバート氏が結婚したんだって」
「ロバート氏?」
「ついには子爵も男爵も全部悪い人にとられて、爵位も財産も何もなしのすってんてんになったところを、エレナ嬢が助けたみたいだよ。エレナ嬢は爵位や領地がどんどん増えていく。まったく、物好きな令嬢だよ……」
今日もエレナの屋敷では、女主人の
「お金がないとは何事ですか! わたくしが渡したお金はどうしたの?」
と相変わらずな怒声が響いているとかいないとか――。
―了―