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1.02

「ああ、くそ。眠すぎて死んじまいそうだ」


 時刻は夜の10時。場所はホテルのエレベーター。リサが眠気覚ましのガムをぺっと吐き出し、指で操作盤にくっつけた。


 おれもリサも、仕事に行くときの一張羅だ。腰には銀色に輝くS&Wスミス&ウェッソンのハンドキャノン。愛用のグレネード・ランチャーはお留守番だ。


 耳小骨がぶるりと震えて、視界に〝着信あり〟の文字が点滅する。


 おれはジェスチャーで通話を切ると、軽く舌打ちした。今夜だけでも、もう五度目だ。あのアマ、相当おかんむりらしい。


「急ぐぞ。マダムがお待ちかねだ」

「どうせ遅刻だろ? 今さら急いだって同じじゃんか」

「お前が長風呂しなかったら、そもそも急ぐ必要はなかったんだがな。ほら、降りろ」


 エレベーターのドアが開き、冷えた空気とメタアルコール燃科の臭いが流れ込んでくる。宿泊客用の地下駐車場だ。


 駐車スペースに近づくと、おれの相棒が二進数の眠りから目を覚ました。


 シンゲン・カタナ。二輪駆動2WDのサイバーバイクだ。


 ハロゲン電球ランプに照らされ、ソウル・レッドの鮮烈なカラーリングが暗闇に浮かぶ。徹底的に無駄を削ぎ落としたボディラインは、伝説のサムライが操るカタナのようにシャープだ。


 こいつの真価は、その桁外れのパワーにある。


 0-100km/hゼロヒャク加速はわずか1.6秒。電子制御システムに有線接続ハードワイヤすると、脳髄とエンジンが同調リンクし、超高速のスピードをじかに感じられる。反射神経を増強ブーストしていなければ、まともにカーブを曲がることさえ難しい。


 おれはカタナのシートにまたがると、あごでリサに合図を送った。「さあ、乗れよ」


「けっ、自分のモノみたいに言いやがって。そのじゃじゃ馬を整備してるのはあたしだぜ?」

「でも、運転はおれの担当だ。お前じゃ地面に足がつかないもんな? わかったらさっさと乗れ、ちびっ子」


 リサはおれの背中を20センチは突き抜けそうな視線をよこしたが、おとなしく後ろに座った。黒革ブラックレザーのジーンズがタンデムシートにこすれ、キュッと音を鳴らす。


「しっかりつかまってろよ、リサ」


 アクセルを目一杯ふかすと、血の雨ブラッド・レインが降る夜の街がおれたちを呑み込んだ。


   ⌘


 先斗ポント町。新京都ネオ・キョートの暗黒経済の中心部は、今日も人混みでごった返していた。


 クロームの肩を揺らし、青いネオン提灯チョウチンがぶら下がった小道を歩く。血の雨ブラッド・レインが止む気配はない。ところどころ傷んだ石畳に、ねばついた水たまりができていた。


〝速い&楽しい〟の文字がレインボーに輝く看板を通りすぎると、一軒の寿司スシバーがあった。ファサードは典型的なお茶屋ゲイシャ・ハウス風。赤いのれんをくぐり、店に入る。


〈ニュー・アトランティス〉はいつも満員御礼だ。総二階建ての小さな座敷ザシキに、一癖も二癖もあるパンクどもがすし詰めになっている。


 入口に近い席には、背中の皮膚が電子ペーパーになった新聞屋。その日のニュースをいち早く知らせてくれる男だ。でも、やつを三秒以上見つめるな。200新円ニュー・イェンもの法外なをせびられたくないのなら。


 全身に球体関節を埋め込んだ娼婦ジョイトイも常連客の一人だ。生きたマリオネットのように、ありえない角度で体を折り曲げられる女。彼女に連絡をとりたいって? だったら、その端末でうなじのQRコードをスキャンすればいい。


 銀杏イチョウの一枚板のカウンターに、全身義体フルボディ・コンバージョンのバーテンダーがひじをついていた。おれを見ると、クロームめっきの顔をしかめ、熱いおしぼりを投げてよこす。


「ちょっとくらい体を拭いたらどうだ、兄弟」


 下を向くと、おれのトレンチコートから雨粒がぽたぽた落ち、床が真っ赤に染まっていた。


「おれも歳でね。腰の蝶番ヒンジがすり減ってて、床掃除がこたえるんだ。ほら、そこのお嬢ちゃんも」


 リサはアイス・ブルーの瞳にシャッターを下ろし、のサインを発した。バーテンダーはそれを見て、銀色の歯を輝かせる。


 この陽気な男はアイアン・マイク。引退した元傭兵ソロだ。やつと知り合ってから、もうずいぶん経つ。なにしろ、2016年のベイ・シティ奪還作戦のころの戦友だ。


 そのときにはもう、アイアン・マイクは鉄のアイアンマイクだった。サイボーグ化手術を受ける前の素性はおれも知らない。だが、おれを兄弟と呼ぶあたり、やつもアフリカ系アメリカ人の血を引いてるらしい。


 おれはおしぼりをリサに放ると、カウンターに身を乗り出した。


「で、ニッキーは?」

「彼女か? 相変わらずネットに入り浸ってる。一日中、ジャック・インしてるよ」


 ニッキー。彼女は世にも珍しいハッカーだ。波打つような白の被毛が美しい、メスのホワイト・スイス・シェパード・ドッグ。この店の看板娘マスコットでもある。


「かわいそうに。最近、散歩につれてってやれなかったからな」

「ああ。おまえさんが会いにこないから、すっかりヘソを曲げちまってる」


 ニッキーのサイバーデッキは、伴侶動物コンパニオン・アニマル用の特注品。電脳空間サイバースペース上の経験が、筋組織への電気刺激としてフィードバックされる。彼女にとって、ネットでの仕事ランは散歩の代用品ってわけだ。


 アイアン・マイクが、おれのジョッキにキリンのナマを注ぐ。リサのグラスには、合成牛乳をたっぷり泡立てたミルク・シェイク。


「ほら、そいつを持って奥に行けよ。お二人さん」


 そこで身をかがめ、ざらついた電子音声のボリュームを半分以下に落とす。


「マダムがご機嫌ななめだ。急いだほうがいい」

「あの婆さん、どれくらいキテる?」

「『ジョーズ』のテーマ曲が流れる直前ってとこだな。さあ、早く行けって」


 おれは二人分の代金を支払うと、奥のブースへ向かった。するとたちまち、背中に無数の視線が突き刺さった。テーブルに目を伏せ、さりげなくこっちを盗み見る視線が。店の奥でだれが待っているのか、ここにいる全員が知っているからだ。


 マダムムラサキ。彼女はこの街の女王、ネオ・キョートの裏社会に君臨する女狐めぎつねだ。


 先斗町は端から端まで500メートルの小さな通りストリートにすぎないが、西側はアリの巣のように広がり、混沌とした迷宮を形成している。そして、カーボグラス製のつけ爪をしたマダムの手は、その暗黒の世界のすみずみにまで届くのだ。


 ブースに入ると、低いブーンという音が聞こえた。盗聴妨害装置ノイズ・ジェネレーターだ。マダムは仕事の話をよそ者に聞かれることを嫌う。


 ボックス席の壁際に、長煙管ながキセルを口の端にくわえた花魁オイラン風の女が座っていた。まだ30代の半ばに見えるが、実際はもっと年を食ってるはずだ。


 濃いアイシャドウに縁取られた両まぶたは、仏像のように閉じられている。だが、額の真ん中に移植された人工の眼デザイナー・アイがぎょろりと動き、おれをにらんだ。


「ずいぶん遅いじゃないか、ジョー」


 マダムは紫煙をふっと吐き出すと、その日初めておれの通り名ハンドルを呼んだ。おれの名はジョー。ただのジョーだ。


 ソファに座ろうとすると、赤紫色バーガンディのマニキュアを塗った爪がのび、おれの脇腹を小突く。


「あんたは立ったままでいな。この私を42分も待たせた罰さ」


 おれはマダムを無視して、ボックス席にどっかり腰を下ろした。ジョッキのビールをひと息に飲み干し、げっぷをする。


 マダムの目が三つとも険悪な光をたたえる――


「気に入らないなら、ほかの連中を呼ぶんだな。こっちは当分、働かなくてもいい身分なんでね」

「ふん、ずいぶんご立派なことだね、ジョー。いったいだれのおかげで、一人前になれたと思ってるんだい? 私が仕事を回してやる前は、そこらの浪人ローニンだった坊やが」

「母親ってのは、息子の成長を喜ぶもんだろ?」

「あんたみたいな息子がいたら、あたしゃ30前にくたばってただろうよ。まあいい。リサ、あんたも早く座りな」


 おれたちが席につくと、マダムの背後からサイボーグ忍者ニンジャが姿を現し、テーブルの上に黒いメモリーチップを置いた。連中にはいつもぞっとさせられる。今の今まで、光学迷彩カメレオンで気配を消していたのだ。


「いいかい、ジョー。今回の仕事はちょいと厄介だ」

「あんたとの仕事セッションはいつもそうだろ?」

「黙って聞きな。始まりはよくある話さ。最近、鴨川カモガワで立て続けに死体が揚がってね。このチップには、そのホトケさんのデータが入ってる」

「それで?」

「死体くらいどうってことないが、この件にはどうも裏がありそうなんだ。どいつもこいつも、異様な死に方をしててさ。ストリートじゃ、こんな噂まで聞くようになった。あの連中は、だれかの恨みを買ってのだと」


 マダムはそこで言葉を切ると、三つの目でおれを見つめた。


「あんたら二人には、その呪いとやらの正体を突き止めてもらう。ホトケ様の祟りだかなんだか知らないが、私の縄張りシマを荒らす連中は放っておけないからね」

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