「膨張、圧縮、比較計算、オールクリア。エンジン点火。三時間の後、シールドの展開とワープ航行を開始します。」
「了解。Aブロックを使わせてもらっていい?」
「もちろんです。消灯後下降します。」
灰色の部屋を照らしていた柔らかい照明が、ゆるゆる力を弱めながら消えていく。
アカリの周囲にあったモニター群も溶けるように分裂し極微細な粒子になって見えなくなっていく。
最後に壁面のモニターがシュワシュワと粒子となって消えると、部屋はほぼ完全な闇になった。
程なく、アカリの周囲の床に円形の光の線が現れる。ちょうどアカリと手すりを囲む程の範囲が、少しの音も出さずに下降を始めた。
この下降機を囲む壁には余計な装飾や広さが排されている。下降の速さも、人が使用することを考慮されたものではない。
アカリの黒髪がフワフワと踊る。彼女は手すりに体重を預け、体を全く動かさずに目を閉じていた。
「航行時間の概算は?」
「二度の軌道修正が必要になりそうです。一度目の停止地点には五ヶ月、二度目の停止地点には三ヶ月。そこから直進しNumerical Black地点への侵入は二年、合計で二年と八ヶ月から三年ほどの航行となります。」
話しを聞いているうちに下降のスピードが緩む。アカリはそれに合わせて手すりを掴みながら体をくるりと反転させた。フワリと停止すると、目の前の二重の重厚なハッチがロックを解除しながらガシャン、ガシャンと開く。
「了解。ワープ開始からカプセルに入るから、あなたのタイミングで、いつでも起こして」
「承知しました。」
下降機の出入り口は、長辺100m短辺20m、床から天井まで10m程の巨大な廊下、その短辺の中央に位置している。
アダマントAIの制御する機械達が船内の至る場所へ移動するのに使うこの廊下は、長辺に三つずつ、高さ8m近い巨大な扉が並んでいる。作業する機械の種類と大きさ、運搬の都合もそれぞれなので、大きく余裕を取って作られているようだ。
アカリが乗ってきたものは、全くアカリ専用の昇降機で、ハッチの大きさも人間の慣れたそれである。
どの扉や機構も、アダマントの制御前提で、それの使用方法を示す文章や昇降機の向かう先の案内は無い。
手動で操作できる機構も緊急時のもので、目に見える場所には作られていない。
アカリが先ほどまでいた部屋と同様の照明が、天井と壁にいくつか埋設されていて、視認性は確保されている。だがその光が照らすのはやはり、黒と灰、鉄塊が無駄なく計算通りに敷き詰められた空間である。
アダマント開発段階のスムーズさのためにも、アダマントが船として動いている間は重力制御が働くように出来ていた。
アカリは廊下の端から端、100mをスタスタと進んでいく。
「ナツ、いる?」
「はいよ」
アカリの周囲に夏姫の姿は無い。だがアカリの頭の上のどこかから声が聞こえてくる。
アカリが向かう先には、高さ5m横幅7m程の巨大な両開きの扉が構えている。彼女の足が扉に到着しそうになると、その奥で巨大な機械の作動音がした。全長8kmの船全体が駆動しているような重低音が、廊下全体を震わせる。
「発進までの間、少し話しましょう。Numerical Blackに突入する前に、改めて計画の発端であるあなたに話を聞きたいから」
「わかった。いいよ」
アカリが扉の前に立つ。人間大の機械のために用意されている扉の区画がガシャンと音を立てて1mほど後ろへ凹んだ。扉の奥で何かの連結と分離が行われているようで、ガチンガチンと音がする。
これまでの騒々しさに反して扉が左右へ退いていく時にはほとんど雑音が無い。
アカリは扉の奥へスルスルと進んでいく。
3m程の通路を進むと、先ほどの廊下など比べ物にならないほど広大な空間に出る。
一辺300mの正六面、Aブロックと呼ばれるそこは、全面が発光するような白で統一されている。その一面の中央からアカリが現れると、アカリの背後からスルリと夏姫も現れる。
下から壁が音もなくスライドされて、出入り口をピタリと閉じる。穴を埋めた壁は2cmの正方形が並ぶ格子が描かれていたが、ピッタリと出入り口を埋めると、その他の壁と同様、ジュワリと肌を白色に変化させた。
アカリとナツが入り口で足を止める。
「カフェテリア展開」
アカリが虚空に向かってそう指示を出すと、Aブロックの壁全体に、情報子エネルギーが質量を形成する発光現象が這い回る。300mの立方体全てに、突如として青く発光する蟻の大群が現れたような景色だ。
青い光の波は、柔らかい灰色の壁に、コーヒーと軽食のためのマシーンとキッチン、清潔な木目のカウンターと円形のテーブル、四つ足の椅子、床から天井、部屋の端と端を覆う5mの窓を形成していく。
五秒のうちに、そこは地上400m付近に位置する、50程の席数を持つ社内カフェに様相を変化させた。
窓の下には、大きく五層に分けられた地上道路と、空中ドローン用のレーザーロードが敷かれていて、資源の流通がスムーズに行われているのが見て取れた。
アカリとナツが近場のテーブルに腰を下ろす。彼女達二人以外に人影はない。
座ったまま後ろへ下がって足を組んだナツがアカリへ言った。
「せめて注文は取りに来て欲しいね」
アカリがナツの背後のカウンターに目線を送る。
カウンターの中に情報子が初老の男性を作成した。
彼はメニューと水を準備して二人の席に近づく。
「注文が決まりましたら、お呼びください」
彼はカウンターの奥へ戻り、キッチンに置いてあった本を手に取ると、カウンターチェアにゆったりと座って読み始めた。
「ふふっ、あのマスター懐かしいね」
「この空間情報は私の思考に依存して作られてるから、あなたの事を認識してるように振る舞う。あなたは物にも触れられる。」
「あら嬉しい」
アダマント建造のために作られた三つの星系を結ぶ区画「SUMMER CORE」。その計画の大部分を担った宇宙間運送の五割を執り仕切るウーロングループが、地球類似惑星に建てた高さ1000mのメガストラクチャー、このカフェテリアはその中にあったものだ。
アカリは計画のためSUMMER COREに移住してから、ほとんどの時間をその建物の中で過ごした。
アカリがインターフェースを立ち上げていると、ナツがメニューを取り、マスターの方へ体を捻って掲げて見せる。
男性は微笑しながら本をパタリと片手で閉じる。
「ブレンド、ホットでひとつ」
アカリは終始無表情だ。出された水にも全く手を触れない。
「ブレンドが出来上がるのに、大体3から5分ってとこかな。さっさと持って来させないでよ」
「わかってるよ。マスターを作らせた時点でね」
ナツがニコニコといった表情でアカリを見ている。
アカリは注文の到着で会話が途切れることを嫌って、コーヒーが完成するまでの間、俯いて目を閉じた。
誰もいないマヤカシのカフェの中、二人は五分間全く会話を交わさず、豆が砕かれ、熱湯が注がれ、一杯のコーヒーが出来ていく音を聞いていた。