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七話



 夢を見ていた。


 ──あの日の、記憶。




 夜の神社は、異常なほど静かだった。

 風もなく、虫の声すらしなかった。

 聞こえるのは、母さんと僕が歩く足音だけ。


 ザッ、ザッ──。

 落ち葉を踏む音がやけに大きく響く。




 母さんの手を握っていた。

 あたたかい、はずなのに。

 どこか、冷たかった。




 その時だった。




 バリバリバリバリ!!!




 耳を裂くような音が、背後から鳴った。

 雷でも、何かが砕ける音でもない。

 “空間そのもの”が、ひしゃげたような音。




 母さんが僕を抱き寄せ、すぐに振り返った。




 そして、僕の目を手で覆った。




́『……ハハハ……』




 「ハ……ハハ……ア……ハァ……」




 笑っている、のだろうか。

 それとも泣いているのか。

 いや、どちらでもない……怒っているようにも聞こえる。




 声は、ひとつじゃなかった。

 二重、三重……何層にも重なったような音。




 それが、近づいてくる。




 「悠斗!! 逃げなさい!!」




 母さんの叫び。

 けれど、僕の足は動かなかった。


 怖くて。

 なにも分からなくて。

 ただ、母さんの背中にしがみつくことしかできなかった。




 「……こんなところまで、追ってきたのね……」




 母さんが言った。

 相手に向かって、語りかけるように。




 「あなたたちのことは……残念だけど、私には救えないわ」




 その声に応えるように、笑い声が止んだ。

 代わりに、低いうなりのような音が空気を振るわせた。


 ……僕は、ついに見てしまった。


母さんの足元の隙間から、ほんの少しだけ顔を覗かせる。


空っぽだったはずの空間に、顔があった。


いや、違う──“それ”は、母さんの目の前でしゃがみ込み、

僕をのぞき込むようにして顔を寄せてきていたんだ。


ほんの数センチ。手を伸ばせば触れられる距離。


紫色の肌。

ボサボサの長い髪の隙間から、黄色い猫の目が覗く。

目の縁から、血の涙がとろりと零れていた。


唇は笑っていた……けれど、それは、泣き顔にも怒りにも見える。


意味の分からない顔。


人間じゃない。


「……あ……」


息が詰まった。

喉が凍りついたみたいで、声が出ない。


ただ、“それ”と目が合ってしまった。


世界が、静まり返った。

音も、風も、呼吸すら止まった気がした。


 髪は腰まで伸びて、ぼさぼさに乱れていた。

 角が、鬼のように突き出ている。

 肌は紫色に変色し、見るだけで吐き気を催すような禍々しさを放っていた。




 そして──目。


 黄色い猫の目が、闇の中で光っていた。




 消えた、と思った。


 次の瞬間、目の前に“それ”の顔があった。




 血の涙を流しながら、じっと僕を見ていた。




 「っ……!」




 母さんの声とともに、赤い光が弾けた。


 その光に焼かれたように、“それ”の顔がぐにゃりと歪む。




 でも、終わらなかった。




 そいつは母さんに巻きつくように襲いかかり、

 二人の顔が、異常なほど近づいた。




 母さんの目が、恐怖で見開かれていた。

 言葉にならない叫びが、喉の奥でかすれた。




 そして……引きずられるようにして、林の奥へ。




 「かあさん!!」




 僕は、ようやく動けた。

 気がついたときには、林の中を走っていた。




 ……そして。




 光が、閃いた。

 赤い、眩しい光。




 その光の中に、母さんは倒れていた。

 意識を失い、動かない。




 “それ”の姿は、どこにもなかった。




 ──どうして、忘れていたんだろう。




 いや、違う。

 忘れていたんじゃない。




 “忘れようとしていた”んだ。




 あの夜のことを。

 あの化け物のことを。

 母さんの、恐怖に歪んだ顔を。




 全部……記憶の底に、閉じ込めていた。




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