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夢を見ていた。
──あの日の、記憶。
夜の神社は、異常なほど静かだった。
風もなく、虫の声すらしなかった。
聞こえるのは、母さんと僕が歩く足音だけ。
ザッ、ザッ──。
落ち葉を踏む音がやけに大きく響く。
母さんの手を握っていた。
あたたかい、はずなのに。
どこか、冷たかった。
その時だった。
バリバリバリバリ!!!
耳を裂くような音が、背後から鳴った。
雷でも、何かが砕ける音でもない。
“空間そのもの”が、ひしゃげたような音。
母さんが僕を抱き寄せ、すぐに振り返った。
そして、僕の目を手で覆った。
́『……ハハハ……』
「ハ……ハハ……ア……ハァ……」
笑っている、のだろうか。
それとも泣いているのか。
いや、どちらでもない……怒っているようにも聞こえる。
声は、ひとつじゃなかった。
二重、三重……何層にも重なったような音。
それが、近づいてくる。
「悠斗!! 逃げなさい!!」
母さんの叫び。
けれど、僕の足は動かなかった。
怖くて。
なにも分からなくて。
ただ、母さんの背中にしがみつくことしかできなかった。
「……こんなところまで、追ってきたのね……」
母さんが言った。
相手に向かって、語りかけるように。
「あなたたちのことは……残念だけど、私には救えないわ」
その声に応えるように、笑い声が止んだ。
代わりに、低いうなりのような音が空気を振るわせた。
……僕は、ついに見てしまった。
母さんの足元の隙間から、ほんの少しだけ顔を覗かせる。
空っぽだったはずの空間に、顔があった。
いや、違う──“それ”は、母さんの目の前でしゃがみ込み、
僕をのぞき込むようにして顔を寄せてきていたんだ。
ほんの数センチ。手を伸ばせば触れられる距離。
紫色の肌。
ボサボサの長い髪の隙間から、黄色い猫の目が覗く。
目の縁から、血の涙がとろりと零れていた。
唇は笑っていた……けれど、それは、泣き顔にも怒りにも見える。
意味の分からない顔。
人間じゃない。
「……あ……」
息が詰まった。
喉が凍りついたみたいで、声が出ない。
ただ、“それ”と目が合ってしまった。
世界が、静まり返った。
音も、風も、呼吸すら止まった気がした。
髪は腰まで伸びて、ぼさぼさに乱れていた。
角が、鬼のように突き出ている。
肌は紫色に変色し、見るだけで吐き気を催すような禍々しさを放っていた。
そして──目。
黄色い猫の目が、闇の中で光っていた。
消えた、と思った。
次の瞬間、目の前に“それ”の顔があった。
血の涙を流しながら、じっと僕を見ていた。
「っ……!」
母さんの声とともに、赤い光が弾けた。
その光に焼かれたように、“それ”の顔がぐにゃりと歪む。
でも、終わらなかった。
そいつは母さんに巻きつくように襲いかかり、
二人の顔が、異常なほど近づいた。
母さんの目が、恐怖で見開かれていた。
言葉にならない叫びが、喉の奥でかすれた。
そして……引きずられるようにして、林の奥へ。
「かあさん!!」
僕は、ようやく動けた。
気がついたときには、林の中を走っていた。
……そして。
光が、閃いた。
赤い、眩しい光。
その光の中に、母さんは倒れていた。
意識を失い、動かない。
“それ”の姿は、どこにもなかった。
──どうして、忘れていたんだろう。
いや、違う。
忘れていたんじゃない。
“忘れようとしていた”んだ。
あの夜のことを。
あの化け物のことを。
母さんの、恐怖に歪んだ顔を。
全部……記憶の底に、閉じ込めていた。