静まり返った病室。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み、薄紅の光がカーテンを柔らかく染めている。
母の寝息が、機械の規則的な音と重なり、かすかに響いていた。
僕と美琴は、ようやく心を落ち着かせた。
彼女が泣き崩れてから、しばらく時間が経ったが、まだ微かに瞳の端が赤いままだ。
それでも、美琴は深呼吸を一つし、真剣な表情で僕を見つめた。
「では、悠斗君……遥さんの状態を確認します。」
その一言に、僕は自然と息を詰めた。
美琴が母の枕元へと歩み寄る。
そして、ゆっくりと手をかざした——その瞬間だった。
バチッ!!!
まるで見えない何かに弾かれたかのように、美琴の体がわずかに跳ねる。
「っ……!!!」
顔をしかめ、額に汗を滲ませる美琴。
「ど、どうしたの!?」
異様な光景に、思わず僕は彼女に駆け寄った。
「……悠斗君に、二つお話があります。」
眉を寄せ、息を整えながら、美琴がゆっくりと口を開く。
「一つ。遥さんは、呪いが薄い。つまり、巫女の力を使っても——私ほど酷い代償はありません。」
「——!」
その言葉を聞いた瞬間、安堵と……複雑な感情が胸を駆け巡る。
母さんが酷い苦しみに苛まれないのは、もちろん嬉しい。
でも……。
「二つ目。」
美琴が、静かに続ける。
「悠斗君のご家族を襲った霊——そして、私の家族を殺した霊——それは、同じ霊です。」
「……え?」
脳が一瞬、停止する。
同一人物?
母さんと美琴の家族を襲った霊が、同じ……?
「でも……そんなの、偶然っていうか……」
「いえ。」
美琴は首を横に振る。そして、真っ直ぐ僕の目を見つめ、次の言葉を紡いだ。
「私たちの故郷——蛇琴村では、この霊を 迦夜(かや) と呼んでいます。」
「迦夜……?」
その名を口にした瞬間、背筋に冷たいものが走る。
ただの名前なのに、何か……得体の知れないものが、すぐそこにいるような感覚。
「迦夜は、非常に強い怨念を持った霊です。この国のどこにでも移動することができ、その力は……私一人では間違いなく祓えません。」
——美琴でさえ祓えない。
その事実が、現実味を帯びて胸に突き刺さる。
美琴が祓えないほどの霊……そんなものが、ずっと彷徨い続けている?
「……だけど、美琴……」
「はい?」
「じゃあ今、そいつはどこにいるの?」
それが、一番気になった。
もしそんな危険な霊が、どこにでも移動できるなら——もしかして、すぐそこにいるんじゃないのか?
美琴は少し表情を曇らせ、低く答えた。
「……それが分かれば、もう戦っています。」
「……え?」
「迦夜の痕跡をたどろうとしましたが、桜織市で完全に途絶えました。」
その言葉に、少しだけ安堵する。
だけど、すぐに美琴の視線が鋭くなる。
「悠斗君……迦夜は、いつまた現れてもおかしくありません。」
「……」
「この町に、まだ潜んでいるのか……それとも、またどこかへ移動したのか……。」
美琴の声には、抑えきれない緊張感が滲んでいた。
彼女にとって迦夜は、家族の仇。絶対に許せない存在。
「話が飛んでしまいましたね……。」
美琴は再び、母さんの方を見やり、口を引き結ぶ。
「遥さんは、おそらく迦夜によってこうなったのだと思います。彼女の周りには、迦夜の霊力がわずかに残っていました。」
「……迦夜……。」
思わず、その名を噛み締める。
10年前、母さんを意識不明にした霊——
そして美琴の家族を殺した霊——
同じ存在。
そう思うと、胸の奥から、どうしようもない怒りが込み上げてきた。
「美琴……」
絞り出すように声を発する。
「もし……もし対峙する時が来たら……僕も——」
「悠斗君。」
美琴が静かに遮る。
「本当に危険ですよ? それこそ、あの殺人鬼の比じゃありませんから。」
——廃工場で戦った、殺人鬼の霊。
黒崎剛三。
あいつとは、比較にならないほどの強さ——
「それでも。」
僕は、息を吸い、拳を握る。
「もっと……強くなる。だから、迦夜がもし現れたら、一緒に戦おう。」
自分でも驚くほど、はっきりと言った。
美琴は、じっと僕を見つめる。
長い沈黙。
そして——
「……私一人では、祓えません。」
彼女は、わずかに微笑んだ。
「だから、その時は……悠斗君の力を借りたいです。」
病室の静寂の中、僕たちの視線が交差する。
外では、夕陽が沈みかけていた。
ゆっくりと夜の帳が降りる頃——僕たちの運命もまた、大きく動き始めていた。